めざせピュアニスト

 「地球雑貨ふろむ・あーす」が主催する、カリンバワークショップに参加するため、世田谷ものづくり学校を訪れた。
 この世田谷ものづくり学校というのがまた非常に不思議な空間で、なんと小学校に隣接する中学校そのものを、民間のコミュニティ施設として生まれ変わらせてしまったものなのだ。なので職員室が事務所になっていたり、理科室がカフェレストランになっていたり、外観はまさに学校そのもの。
 ワークショップや民間のイベントも数多く開催され、その会場はもっぱら教室。ということで今回も、昔懐かしい学校の机に座りながら、ワークショップを受けてきた。

 カリンバとは、別名「指オルゴール」などとも呼ばれる、アフリカの伝統的な民俗楽器だ。今回のワークショップは、これを「1から組み立ててしまおう」というのが一番の特色になっており、手を汚し、とんかちやペンチを使い四苦八苦しながら、組み立てからチューニングまでをこなしていった。
 カリンバの素晴らしいところは、その美しい音色のみならず、特殊な材料は一切使っていないという素材の環境配慮と、自分の手でチューニングしてしまえば理論上どんな音階でも再現可能という、表現上での汎用性の広さだろう。

 楽器の組み立てはおよそ3時間程度で終了し、そのあとは「カリンバクラブ」と題して、以前にカリンバワークショップに参加した人なども交えたセッションを行った。太鼓や竹笛なども登場し、原始的にわいわい好き勝手に演奏する形で、非常に盛り上がった。

 ちなみに今回私がこのワークショップに参加した一番の目的は「CO2フリーの楽器を手に入れる」ことにあった。これで、電気を使わずに音楽を奏でることができるようになったのである。
 これで私も「ピュアニスト」の仲間入りだ(えー)。




おおきくなーれ

 私は独身である。

 ゆえに私が「自分のこどもの世代に」と言うとき、厳密に自分のこどものことを指しているわけではない。一般論として、今園児だったり児童だったりという世代のことを指しているだけだ。

 決して子供のいない人は子供の世代のことを考えてはいけない、と言いたいのではない。ただ、これからのこの星の未来を考える際に、「地球が」とか「大地が」と考えるより、「自分の子供が」と考えることのほうが大切だと思うし、自分のこどもが笑ったり、泣いたり、少しだけ背が伸びたり、どろんこになって帰ってきたり、残さずにご飯が食べられたり、眠りながらちょっとだけ笑顔になっていたり、そういった小さな幸せこそが、この星を守りたい、と思うことの原点なのだ、ということを、忘れてはいけないと思うのだ。

 なんでこんなことを書いているのかと言うと「∞Perfect Color∞」さんのブログで、れんげ草の観察日記、というものを書いていて、私が100の記事を書いて、どんなに地球環境について論考しようとも、「れんげ草大きくなーれ♪」と思うその気持ちには勝てないなぁ、と思ったからだ。
 
 きっと、考えることより、論ずることよりも、願うことのほうがずっと大切で、守ることは願うこと、それが出発点なのだ。

しゃべります(笑)

 先日ご紹介したとおり、勝手にラジオを開始します(笑)。

21時より、下記アドレスをインターネットブラウザに入れていただくと・・・
●http://203.131.199.131:8070/life-of-eco.m3u
ラジオが流れます。

ついでにラジオ専用掲示板も作ってみました。
●http://jbbs.livedoor.jp/news/3923/
ご意見、ご感想などありましたらどうぞ。

正直素人の自己満足なので、駅前にたむろして好き勝手に歌っているストリートミュージシャンを眺めるがごとく、好き勝手に出たり入ったりしてください(汗)。

21時開始です。


※追記
 おかげさまで無事終了致しました。
 だいたい50分くらいの番組になりました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。

“持続可能”って何??

 「Sustainable(サステナブル)」持続可能な社会、ということが言われるようになって久しい。この国においては、おそらく「LOHAS」の「S」として広まっていった言葉なのだと思うが、この「持続可能」というのがいったい何を指すのかと言われると、返答が難しい。これはおそらく私個人が分かっていないのではなくて、社会的にも「持続可能」という言葉の定義ができていないのだと思う。

 「持続可能」という言葉そのものを取れば、その意味は「ずっと続けていくことができること」ということになる。
 「持続可能な社会」という言葉は、そもそも「縮小経済」という考え方に対するカウンターとして生まれた言葉だ。地球環境への配慮、ということを考えれば、今ある経済発展や開発を退行させて、経済規模を縮小させてしまうのが一番望ましい(縮小経済)。だが、これまでの発展を昔の状態に退行させるのは現実的に難しいという事実と、政治的なアプローチで言っても市民の反感は免れないであろうというやむを得ぬ事情から、「では環境に配慮しながら経済発展や開発ができるようにしましょう」というのが、持続可能社会の考え方だ。

 ・・・。自分で書いていて意味が分からない。一応『eco検定公式テキスト』の記述を写しながら書いたつもりだったが、分からない。要するに、経済的な観点からすれば、「環境保護と経済発展の両立が可能な社会」というのがサステナブルのようだが、なぜそれが“持続可能”という表現になるのかが分からない。

 
 こう考える。「持続可能」ずっと続けていける、というのは、おそらく2世代3世代先(アメリカインディアンの教えの沿って言うならば7世代先まで)のことを想定していると思う。
 要するに「持続可能な社会」とは、「2世代3世代先まで、現状の経済が維持できている社会」のことを指しているのだと思う。
 この「維持できている」ということが、重要な意味を持つ。つまり、発展を退行させることはできない。ただ、次世代のことまで考えると、これ以上の経済発展は地球環境に深刻な打撃を及ぼす。だからまず、2世代3世代先まで、今の経済状態を維持することを優先に考えないか、というのが、サステナブルなのではないだろうか。

 簡単に言うと、「これ以上経済を発展させるのはちょっとストップさせて、まずは現状維持を考えないか」というのが、「持続可能な社会」の本来の考え方なのではないだろうか。
 もっと簡単に言うと、「これ以上会社を大きくしようと考えるのを、全企業が一斉に止めてみないか」、もっともっと簡単に言うと「昨年対比、という考え方を全企業が捨ててみないか」というのが、本来の持続可能社会の理想なのではないか、と思う。

 これを「経済はもっともっと発展して、かつ環境に配慮していればサステナブルなんだ」という意味で捉える人がいるから、サステナブルの意味が混乱するのだと思う。木材でできた人形や、廃材で作ったバッグなどをサステナブルと謳って販売しているようなところもあるが、そういうのはまずサステナブルの言葉の定義を履き違えているのだと思う。

 本来「持続可能な社会」とは、「現状維持社会」と呼ばれるべきものだったのだろう。ただ、Sustainableの訳が「持続可能」ということだったので、やむなく「持続可能な社会」という表現にならざるをえなかった、というのが正直なところなのではないだろうか。
 となると、一番の責任は、環境問題にSustainableという言葉を持ち込んだ誰か、ということになるが、そこまで来ると、もう犯人は誰か分からない。

ねとらじはじめました

 前回の記事と少し関連するのだが、やはり現在の日本社会の最も奥深い病巣の一つに「不信と無関心」というものがあるのだと思う。

 隣の人が信用できない、企業が信用できない、学校が信用できない、政府が信用できない・・・ありとあらゆるところに「不信」の種があり、「信用できないものにはかかわらないほうがいい」というある種健全な判断が、人や地域への「無関心」を生んでいる。
 最も身近であるはずのものに無関心であることが、結局は地球環境や子供たちの世代の未来への無関心にも繋がっていく。

 だからこそ、まずは隣人や地域、身近な存在と手を取り合える社会を築くこと、これが環境問題解決への第1歩となり、そして、この「エコナコト」のようなブログを通じて、同じ考えを持つ者同士がバーチャルではありながらもコミュニティを形成するということは、人と人とが手を取り合うきっかけとして非常に大きな役割を果たすであろう、と私は信じている。

 ただ一言に手を取り合う、と言ってもそれは非常に難しい。なぜなら、「不信」の一番の原因は「相手が何を考えているのか分からない」という点にあるからだ。
 だからこそ、環境問題や平和活動に造詣を持っている、私たちのような人こそが率先して自らの情報をオープンにし、手を伸ばしていくことが、大切なのだと思うのだ。


 えー、というわけで、前置きが長くなりましたが(笑)、じつは今私は、「ねとらじ」という、個人で勝手に放送しているネットラジオ、というものをやっています。
 人が情報をオープンにする手段というものはいろいろあると思います。絵を描いたり、映画を撮ったり、音楽を作ったり、小説を書いたり・・・そういった、「人と人が手を取り合うために、自らの情報をオープンにする手段」として、ねとらじが利用できないかなぁ、と思い、このブログでも、ねとらじのURLを公開したいと思います。

 ●http://203.131.199.131:8070/life-of-eco.m3u

 放送日は不定期ですが、次回は今日6/29(金)午後9時からやろうと思っています。
 当日午後9時以降に、このアドレスをインターネットブラウザに入れていただければ、生放送で私が喋っているのが、聞こえてくるはずです(笑)。
 個人が勝手に喋っているだけのものなので、同じくネット上でラジオ番組を持っていらっしゃる石原可奈子さんのような立派なものではありませんが(汗)、もし良かったら聞いてみてください。

世界環境写真展に行ってきた

  『Air Planet』さんのブログで宣伝されている、「世界環境写真展」にお邪魔し、管理人「Air Planet」さんにお話を伺ってきた。

 世界環境写真展は、Air Planetさんのブログにもある通り、東京都と新宿区の後援を得て、「UNEP(国連環境計画)」が募集した環境をテーマにした写真コンテストの優秀作の中から、「地球温暖化」というテーマに沿った写真をピックアップして展示しているものだ。会場である新宿西口イベント広場は、新宿西口の地下にあり、駅から見るとちょうど裏手に位置する部分にスペースが組まれていたので、少し場所的には迷うところかもしれない。

 一通り作品を鑑賞した後、Air Planetさんにご挨拶。なかなか普段誰かと面と向かって環境問題に関する話をする機会もないので、これもいい機会と思い、いろいろ話を聞いてきた。
 そこで一つ知ったのは、UNEPという組織は、国連の中でも重要な議題が集中する、いわば中枢組織に近い存在感を持っているにも関わらず、「日本ユニセフ協会」のような、日本において活動する支部が存在していない、ということだった。何やらいわくがあってのことのようだったが、だから、今は日本におけるUNEPの活動を復興させる目的もあって、Air Planetさんのような草の根組織が、UNEPの活動を紹介したりなどして、UNEPの活動をバックアップしているのだという。
 あとはAir Planetさんのブログにある通り、日本人の環境問題に対する無関心さを非常に残念に思っていた。その点については、私も少し意見を述べさせていただいて、結局日本人が隣人や誰かと、手を取り合ったり、協力したり、情報を共有するという文化が失われ、今現在誰かと繋がりあっているという意識がないから、未来や、子供たちの世代と自分たちが繋がっている、という感覚を持つことができず、それが環境問題への無関心さを生むのだろう、という話になった。

 写真は、「環境破壊が進む現場にも、人の生活、命がある」ということを主題に選ばれているような気がした。伐採され荒地と化した森林、その荒涼たる自然と一緒に写る子供たちの姿がある。その「現場」を目の当たりにする、という経験だけでも新鮮なものだと思う。

 写真展はいよいよ明日まで。展示品を見てこの星に思いを馳せるも良し、Air Planetさんに声をかければ快く話をしてくださるので、普段の胸のうちにためている環境への思いを打ち明けるも良し、もしお暇なら、皆さんも行ってみてはいかがだろうか。

「目覚めよ」と政治学者は言った

 C.ダグラス・ラミス著『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』を読んでいる。「読んでいる」というのは、まだ全部を読みきっていないのだ。
 ダグラス・ラミス氏と言えば、今年のGeshiFesで辻信一氏の隣に同席していた人物で、geshiFesでは、「火鉢の火を見ていると安心する」という話を、ぼそぼそとか細いながらも流暢な日本語で語っていたのが印象的だったが、改めてプロフィールを見ると、本職は政治学者で、沖縄を拠点に日本の平和憲法やその他日本論を研究している人らしい。

 実際に著作を読んでみると、ラミス氏と、私のブログの記事には共通点があることが分かる。例えば、平和の問題と環境問題は密接に結びついている、ということや、それらの諸問題を解決するためには、まず人々の意識や、常識を変えなければならない、要するに「つきつめればココロの問題」と考えている点、などだ。
 一介のブログ書きの理論が、専門の政治学者と同じ地平にいた、ということを自慢したいわけではないが(いや、本当はちょっとしたい)、やはり、平和や環境問題を考えた場合、人間の心の在り方が重要な指針となるのは、専門家の目から見ても間違いのない真実なのだろう。

 まだ最後まで読み終えていないので、正確ではないだろうが、ラミス氏の言いたいことを一言にまとめるならば、「自立しろ」この一言に尽きると思う。
 
 例えば、今世界を脅かしている貧困の問題は、アメリカが、国策として「未開発国の発展を援助する」と宣言したところにその発端はある、とラミス氏は指摘する。
 その時の「発展」という言葉には、「アメリカその他先進国のような経済体系を確立し、経済的に豊かになる」という意味を持っていた。それはつまり、「途上国(この言い方も本来なら間違っている)に、アメリカの価値観を強制する」ということに他ならず、簡単に言うと、途上国の人々に、アメリカのリゾートや高級車の写真を見せ、「ほらほら、世界はこんなにリッチなんだよ~、でもこれドルがないと手に入らないんだよ~、ドル欲しいよね~、ドルがないとまずいよね~、」と広めて回るようなことを、アメリカはやってしまったのである。
 一度そういう情報が手に入ってしまうと、途上国の人々であっても、もう自らの置かれている環境に満足できなくなる。そこに付け込んで、安い賃金で途上国の人々を「搾取」することに成功した、というのが、アメリカにおける「未開発国の発展を援助する」ことの実態だ。
  ただこうしたことは、何も「先進国対途上国」のみならず、この日本という国の中にも存在する。
 例えば自動車や携帯電話などが良い例で、初めは「あればいいな」という程度だったものが、いつの間にか「誰もが持っているもの」になり、「持っていないとまずいもの」に転化される。
 そうなると、本来は「あればいいな」程度の価値だったものを、誰も彼もがあたかも「必須なもの」として追い求め、そこに付け込んで、競争を煽る者、「持たざる者」を搾取する者が現れる。

 こうした事態が、現在の経済発展や競争社会、大量生産大量消費社会を突き動かす原動力となっており、ラミス氏は、そういった「持たざる恐怖」から、人々の意識を解放する必要性を説いている。
 要するに「周りは自動車持ってるけど自分はいらない」とか「みんな新しいもの新しいものって目を向けるけど、古いものにだって良いところはあるよ」「周りは金を持ってるか持っていないかが幸せの基準になる、って言ってるけど金なんてなくても幸せだよ」ということを、すべての人々が堂々と宣告できること、それがこれからの社会には必要なのだ、という。
 それは要するに、メディアや、政府や、大国の持つ情報に流されるな、ということで、要するに「自立しろ」ということなのだろうと、私は解釈する。

 繰り返すが、まだ全部読んでいないので、新しい情報や、新たな解釈が、今後見つかると思う。まずは、バイブルがごとく、そのすべてに目を通すことから始めたい。

すべての人が“発信”の主体に

 何気なく、「You tube」で映像を検索していたら、こんな映像作品を見つけた。

http://www.youtube.com/watch?v=PgRt5iZDFwg


 どこの誰が作ったものかはわからない。既存の音楽に既存の映像を乗せただけの作品だが、この星と、人々の平和を願う気持ちがひしひしと伝わってきて、メッセージとしては非常に良い作品だと思う。
 こういうブログもそうだが、今はこのような映像作品だって、自前のパソコンだけで簡単に作ることができてしまう。
 
 もっと、一人ひとりが、自身の持つ情報を積極的に“発信”するようになれば、より良い世界になるのではないか、と思う。
 「情報化社会」と言われるようになって久しいが、現代社会は、情報を“受信”しすぎるあまり、不必要な競争や嫉妬が増えているように感じる。
 外部から与えられる情報に流されるのではなく、自分自身が何を思い、何を信じ、何を伝えたいと思うのか。それを整理し、一人ひとりが、アートであり、文章であり、様々な方法で情報を発信できるような社会になれば、発信した情報のフィーリングが合った人たちが手を取り合ってそれがまた大きな作品を生んだり、対話や議論が生まれ、そこから画期的なアイデアが生まれたり、といったことが「市民レベル」でできるようになるだろう。

 このブログを見て、何かを考えるきっかけになってくれれば私は非常に嬉しいし、またこれを見ている人が新たに作品を作り、そこからまた人の輪が広がっていけば、もっとエコに関心を持つ人は増えるだろうし、

 平和とは、そんな輪を作り上げる作業の繰り返しで、できあがっていくのだろうと思う。

叡智の結晶としての最終戦争

 キリスト教には、「アルマゲドン」という思想(概念?)がある。人類の最終戦争において、初めて神が現世に光臨し、そこで人類に裁きを与える、というものだ。
 この最終戦争という思想は、何もキリスト教のみに限らず、例えば仏教でも日蓮宗などでは、最終戦争の存在が示唆されているらしい。
 何が言いたいのかというと、キリストであれブッダであれ、この世の神たちは、その叡智を持ってしても、「最終的に人類は戦争を放棄するだろう」との考えには至らなかったのだ。それほどまでに、ある時代までは、戦争というのは人類にとって身近なものであり、人類そのものの「業」である、と考えられていたのだ。

 人類史で言うと、19世紀に発生した産業革命により、科学が発達したことによって、宗教観が人類の中から薄れていった、と言われている。要するに今まで「神の力」として説明されていたものに科学的な根拠が実証されたため、「神の力」を信じる余地が少なくなった、ということだ。
 この時点で、哲学的な人生訓や精神論は別にして、単純な「知識量」においては、人類は神を上回った、と言っていいのだろう。

 だがそれでも戦争はなくならなかった。そして現在も、戦争はなくなっていない。

 科学の発達により、人類は神以上に世界のことを知ることができた。それに加えて哲学の伝承は、当時の神以上の叡智を人類に与えているはずで、しかも私たちは2度におよぶ世界大戦を経験したことによって、戦争の愚かさ、悲しさを身をもって知ったはずなのだ。
 それでもまだ戦争は終わらない。

 何を考えているのかというと、基本的に私たちは、人間を戦争に駆り立てるのは、「知性の暴走」であったり、「知性の欠如」である、と思っている。
 だがその前提はじつは間違っていて、人間は、その類稀なる叡智を持って、熟慮に熟慮を重ねたあげく、“自主的”に戦争という行為を選択しているのはないか、と考えたのだ。
 そうなると、「戦争は愚かな行為だから、戦争は止めよう」と訴えることや、「良心と対話を以ってすれば戦争は終結する」という考えは意味を成さないことが分かる。「戦争は愚かな行為だと分かっている、悲しいことだと分かっている、ただ私はこの叡智を以って、なんとしても、どうしても、進んで戦争がしたいのだ」という人々が、戦争を動かしている、ということになるからだ。

 いまだに人類は戦争を放棄していない、という意味では、「戦争はなくならない」と予見した神たちの見識は間違っていない、ということになる。いまだに人類は西遊記の孫悟空のごとく、神の手のひらで戯れているだけにすぎない、と言えるし、最終的な平和とは、その手のひらを抜けたところにあるのだ、とも言える。
 人類は神を越えられるか。それもまた、人類にとっての命題、となるのだろう。

誰か僕に仕事をください(笑)

 このブログを見てくださっている方の中で、このブログの管理人「よっひ~」という人物について興味を持ってくれている人がどれだけいるのか分からないが(もしいてくれたらよっひ~が泣いて喜びます(笑))、かなり頻繁に記事が更新されていることについて、不思議に思っている人はいるかもしれない。

 じつは、私は今仕事をしていないのである。無職、というよりは「休職」に近い形で今は仕事を休んでいて、来月から職場復帰する。
 なんでそんなことをぶっちゃけてしまうのかと言うと、前回の「不信の社会」のことと私の休職が少し関連しているからだ。

 会社の一番の使命とは、利益を追求することである。これは資本主義経済における一つの真理であるとともに、現在のような利益追求社会、大量生産大量消費大量廃棄経済を生み出してしまった一番の原因でもある。
 環境問題に造詣の深い人ほど、「自らが理想とする環境に配慮した社会」と「利益を追求し、大量生産大量消費を繰り返す社会の現状」との折り合いを、どう付けているのだろう。私はそこで悩んでしまい、現実的に会社での業績も低下し、これではダメだ、ということで、一度現職を退職させてもらったのだ。

 退職、という形をとったので、当然新しい仕事を探さねばならず、それこそ最初の頃は、勇んで様々な企業に話を聞きに行った。もちろんその中には、いわゆる「環境ビジネス」、環境問題に取り組む、と銘打っている企業も含まれていた。
 だがそこで知ったのは、現在のこの国の会社の、言うなれば「惨状」とも言うべきものだった。1日12時間以上の拘束は当たり前(最高で1日14時間拘束という会社もあった)、休日も週休2日制など確保されず(週休2日を保障する代わりに生活できない給料で働くか、休日月5日しかない代わりにちゃんとした給料をもらうか、どちらか選べ、と言われた会社もあった)、「環境ビジネス」系の会社に行っても、まず最初に言われたのが「環境環境って言うけれど、まず利益を追求することが最初にあってね・・・」という会社ばかりだった。

 結局、今「環境ビジネス」と言われ環境問題に取り組んでいる、といわれている会社も、CSR、企業として社会に貢献する、という目的ではなく、「大量生産大量消費を達成する口実として、「環境問題」というテーゼを利用している」と思えるような企業ばかりだったのだ。これは困った。

 それでもうどこの企業も信用できなくなって、結局前の会社が復職に応じてくれる、ということだったので、ありがたく話を受け、その間の期間をどう過ごそうか、という話になり、何らかの形で、私の環境問題に対する思いを「アウトプット」できる方法はないだろうか、と思い至り、その手段の一環としてブログを書き始めたのだ。

 これが、この「ココロのエコ」誕生のいきさつである。

 でもどうなんだろうか。これからも「利益」とか「スピード」とか「ノルマ」にがんじがらめにされながらも、それでもその脇で環境問題について考えつつ、いわばアンビヴァレンツな気持ちを抱えながら、私のみならず、人々は生きていかなければならないのだろうか。

 正直なところ、前回の「不信の社会」ということについて、私があのように思い至ったのは、私自身がこの国の企業や人々を信用していない部分があるからだ。
 皆さんはどうなのだろう。「不信の社会」と、どう、折り合いを付けていますか??