2007年07月31日
対症療法と根本的解決
あらゆる問題の解決方法には、「対症療法」と「根本的な解決法」がある。本当にその問題を解決したい、と思った場合、対症療法では足りず、根本的(抜本的)な対策を考えなくてはならない。 例えば風邪を引いて熱を出したとする。鎮痛剤を飲めば、とりあえずその場での痛みは引くだろうが、それでは根本的な解決にはならず、睡眠を取るなり、栄養を取るなりして、熱そのものを治さなければならない。 もっと大きく捉えて、貧困なども同じで、飢餓のためにお腹をすかせて、免疫力の弱まった子供がいたとする。ビタミンAのカプセルを飲ませれば、免疫力の低下を緩めることができるらしい(ユニセフにそんな情報が載っていた)が、やはりその子供のことを考えると、ビタミンのカプセルを飲ませるだけではダメで、どうしたら貧困をなくすことができるのか、その根本的な解決策を探らなければならない。 もちろん環境問題にも、これは当てはまる。 例えば最近、夏の晴れた日に日傘を差す人が多く見られるようになった。あれは、紫外線や夏の熱線を防ぐためのものなのだろう。 あれこそが「対症療法」の典型的な例で、日傘を差す人が年々増えていっている、ということは、それだけ紫外線や熱線を浴びるリスクが強くなっていることに、誰もが気づいている、ということだろう。ならば、それこそ地球温暖化や、CO2によるオゾン層の破壊について、真剣に対策を考えなければならないはずで、それをせずに、「紫外線が強くなったら傘で防げばいいか」と考えてしまうのは、根本的な解決を放棄している、ということに他ならない。 だがそれは「エコロジー」についても同じことが言えて、マイ箸やマイバッグを持つ、というのは、「今ある資源をとりあえず減らさないようにする」という対症療法の一種で、本当は、どうすれば誰もが資源を浪費しない社会を築くことができるのか、どうすれば拡大経済を止めることができるのか、その「根本的な対策」を考えなければいけないのだ。 日本はずっと、「対症療法」に終始し、「根本的な解決」を先送りにしてきた歴史がある。それは政治につけ、経済につけ、そして環境問題につけ。 「まず知ることに意義がある」。これは環境問題に取り組む上で、まず初めに誰もが言われることだ。だが、そろそろ、「知る」というところから、「考える」というところへ、段階を進める局面に来ているのではないだろうか。
- posted by よっひ~ |
- 21:03 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月29日
マイバッグもマイ箸も間違っている
『見たくない思想的現実を見る』という本を読んでいる。これは、私が以前、沖縄の基地撤廃論に対する現地の雇用と補助金の問題を引用した際の原典となる本で、経済学者金子勝と、社会学者大澤真幸が、沖縄や老人介護の現場など、社会問題の最前線の現場に実際に赴き、机上の空論では明らかにならない“現実”に一体何があるのか、を説いたものだ。 面白いのは、この本は2人の「共著」ではなく、同じ現場に2人で一緒に赴いて、それぞれに感じたことをまったくお互いには触れず記述している点で、同じものを見て、同じ話を聞いて、その上で経済学的視点と社会学的視点ではどう捉え方や受け止め方が変わるのかが明らかになっているところだ。これは、今までに存在するすべての学術本、という範疇においても非常にユニークな試みだろう。 『見たくない思想的現実を見る』というタイトルは非常に刺激的だ。 環境問題においても、見たくない現実は確実に存在する。例えば、リサイクルの有用性などがそうで、資源のリサイクルに必要な電力や労力は、リサイクル品そのものの環境的コストを遥かに上回る、という試算もあるし、ペットボトルなども、現在はリサイクルが浸透しすぎて、廃棄処分されるものが極端に減ったので、中国など海外に、ペットボトルを「輸出廃棄」している、とういう事実が国際問題にもなっている。 少し前に、『なぜ環境問題ではウソがまかり通るのか』という本が、ちょっとしたブームになった。加熱するエコブームに警鐘を鳴らすカウンター本が今続々と出版されていて、その中には、「資源はリサイクルするよりも、焼却処分して、その際に発生する熱を電力として利用したほうがエコロジカルだ」というような画期的な提言もあったりするが、エコロジストの間で、これらのカウンター理論が真摯に受け止められた例を、私はいまだに見たことがない。 大切なのは、「自分が今やっていることは間違っているのかもしれない」と思う意識だ。 マイバッグもマイ箸も間違っている。いや、実際に正しいのか正しくないのかはさして重要ではない。「間違っているかもしれない」と思っておかないと、批判的言及やもっと画期的な理論が出てきた際に、それを心の内に受け止めることができなくなる。 「我々のやっていることは正しく、今は受け止められなくとも、未来においてその正義は証明されるだろう」 かのファシストたちは、皆そういって人類を絶望の淵へと叩き込んだ。「自分のやっていることは正しい」と思うことは、必ず人を不幸にする。 もしかしたら、50年後、「マイバッグやマイ箸のブームが、環境破壊の一番の元凶だったのだ」と言われる時代が来るかもしれない。 繰り返すが、実際そういう時代が来るのかどうかが重要なのではない。「そういう時代が来るかもしれない」と意識し、批判的理論にも真摯に耳を傾ける姿勢が重要なのだ。 見たくない現実を見る。その勇気がないところに、画期的な理論の飛躍はない。
- posted by よっひ~ |
- 23:08 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月28日
遺伝子組み換え食品とアメリカに「NO!」を
国分寺にある「カフェスロー」というところまで、遺伝子組み換え食品の勉強会に行ってきた。勉強会、とは言っても、遺伝子組み換え食品の危険性を告発したドキュメント映画を見ただけのことだが、環境問題の諸問題の中では唯一、遺伝子組み換え食品のことがよく分かってなかったので、それだけでも結構な勉強になった。 結局分かったのは、遺伝子組み換え食品の問題も、他の環境問題と同じく“アメリカ式市場経済の台頭”と“グローバリゼーションの波”が一番の問題なのだ、ということだ。 例えば、大企業が遺伝子を組み換えた種子の特許を取る。特許品による市場支配のために、農民を不当な言いがかりをつけて断罪したり、その特許品に不利な結果を生みそうな研究を金の力で握りつぶしたり、他国の農園にその種子をばらまいて、いつのまにかその種子の苗が生えてきたのをいいことに他国から特許使用料を徴収しようと画策したり・・・。 一番懸念するべきは、アメリカでは遺伝子組み換えの種子を始め、植物や動物、ウィルスやワクチンなどにも特許を認めつつあって、例えば乳がんに画期的効果のあるワクチンの特許を1企業が独占することにより、人類共通の夢である“がん撲滅”にも莫大な特許使用料が払われなければならない、というとんでもない現実が存在する点だ。 映画の中では、もしこのままアメリカの“特許社会”が進行すれば、例えばアフリカの大森林の中にアメリカ企業特許の種子を蒔いて、種子から生えた新木と在来種の新木が交配し、アメリカ企業特許種子の遺伝子を持つ木の森が出来上がれば、その時点でアメリカ企業はその森を合法的に占拠することができるようになる。その繰り返しによって、アメリカが“見えないところで”世界を征服することさえ可能になってしまう、と訴えている。 これは何も遺伝子組み換え食品に限定せずとも、環境問題全体における重要な問題で、例えば、「CO2を安全に除去できる薬品」とか「エイズの特効薬」とか「砂漠で緑を育てられる物質」とか「破壊された環境下でも生き延びられる機械」などのような、全人類を救えるような画期的な発明がされても、アメリカ企業がその特許を取得し営利を貪るために膨大な特許料を請求されたら、“アメリカ企業によって、救えるはずの人類が破滅する”とう事態もあり得るのだ。 遺伝子組み換え食品に対する対処としては、“対症療法”と“抜本的解決法”があって、まず対症療法としては、遺伝子組み換え原料が使われている食品をきちんと見極め(日ごろスーパーで買うような食品に遺伝子組み換え原料が使われているかどうかは、じつはすでにガイドブックが作成されている)、遺伝子組み換え原料を使用している企業に「NO!」の意志を叩きつけることだ。 そして抜本的解決は「グローバリゼーションと市場経済主義から脱却すること」。 もうお金や物が価値判断の基準になる世界を脱却しよう。その意志こそが、アメリカから、経済から、遺伝子組み換え食品から、そして世界の破滅から、私たちを解き放つ。
- posted by life-of-eco |
- 23:45 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月28日
日本の子供が餓死してしまう
この前の「増殖する南北問題」という記事に関連して、こんな記事を見つけた。 ●仙台の小学校の給食 これがこの国における「南北問題」の現実である。 これはもう本格的に、世界の貧困などと言っている場合ではなくないか?
- posted by よっひ~ |
- 13:16 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月28日
隔離された環境教育
「環境教育」の必要性が叫ばれている。 こと都市部の子供たちは、日常生活の中で自然と触れ合う機会が失われつつある。そこで、学校や自治体やNPOなどが中心となって、林間学校や体験授業を通して、こどもたちに自然と触れ合う楽しさ、そして自然の大切さを学んでもらおうと工面している。 またそれとパラレルに、動物を触れ合う機会を通して、いのちの大切さを学んでもらおう、という動きも現在は活発なようだ。 だが、そのように「自然と触れ合う」「動物と触れ合う」ということを考えた時に、その「触れ合い方」はどのようになっているのだろう、と考えさせられるものを立て続けに見ることになった。 まず1つは、電車の中吊り広告で、日光かどこかのホテルの広告だったのだが、まるで古城を思わせる荘厳かつ巨大な建築物の裏に、森林が映し出されていて、「大自然と触れ合う上質なひとときを」というコピーが付されていた。 もう1つは新聞の記事で、どこかの水族館か動物園の企画なのだと思うが、縄と檻で厳重に隔離された空間の中に、あざらしが1匹鎮座していて、子供たちが縄越しに行列をつくり、おそるおそるあざらしの背中に手を触れる写真が掲載されていて、「動物とのふれあい、こどもたちの思い出に」という題が付されていた。 この2つの例は、環境教育の訴える「自然との触れ合い」「動物との触れ合い」を体現している、ように見えてじつはまったく「ふれあい」になっていないことに、少し考えれば気づくはずだ。 大自然を不自然に切り取り、そこに頓挫した人間のための空間から、まるで文物のように眺める大自然。隔離された牢獄越しから動かぬ動物にただ触るだけの触れ合い。 このような触れ合い方が、「自然との触れ合い」「動物との触れ合い」というテーマに合致していて、これで自然の大切さやいのちの大切さが伝わるんだ、と万が一考えているのであれば、環境教育そのものがまったく意味を成さないことになる。 そこまで極端ではなくても、例えば学校主催の林間学校で、キャンプ場に携帯ゲームを持ち込み、立派なユースホステルに泊まり、夜は電灯が煌々と照らされるような場所で、それでも「自然のある場所で活動したから」林間学校としての意義は成立したのだ、と臆面もなく豪語するような学校は現実にありそうな気がする。 こどものうちから環境に関わることの重要性に、否を唱える者はいないだろう。だが、その「関わり方」を、私たちは再考しなければいけないのではないか、そんな気がする。
- posted by よっひ~ |
- 08:50 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2007年07月26日
御礼
おかげさまで、当ブログの累計アクセス数が1000を突破いたしました。これからも精進してまいりますので、引き続きご愛顧のほど、よろしくお願い致します。 最近、職場で読まれている新聞紙を勝手に回収して、家で分別している。職場の人間は放っておくと、新聞を「燃えるごみ」として処分してしまうのだ。せっかくリサイクルできるのに、もったいない。 最近プラスチックの威力に改めて驚かされている。近頃は、飲み終わったお茶のペットボトルを「マイ水筒」として持ち歩くようにしている(商品としてマイ水筒を買うのは、もったいないと思う)。その上、某お弁当屋さんで惣菜を盛り付けるプラスチックのケースを家に持ち帰って、そのお弁当屋さんで惣菜を買うときには、自宅から持参したケースを使うようにした。 マイ水筒と言い、惣菜ケースと言い、なかなか壊れない。どちらも鞄に入れて運ぶので、時々へこんだり、毎日洗うのでこすれたりするが、どっこい今のところ10日間の使用に、いまのところ耐えている。 プラスチックは、そのものがリユース品としてかなり優秀なことが分かったし、こんなに頑丈なものを私たちは毎日平気で捨てているのか、という事実に愕然とする。 梅雨が明けて暑くなったので、最近家で冷房を使うようになってしまった。 「チーム-6℃」では、省エネと地球温暖化防止のために冷房の温度を28度に設定しましょう、と訴えていて、28度なんてさすがに冷房を使う意味がないんじゃないか、と思っていたが、現在部屋の冷房の温度は27℃になっている。それでもかなりすずしい。 「エコ」という観点で物事を見るようになって、今まで見えていなかったものが見えるようになった。 このブログも、この「エコナコト」も、すべては「エコな観点」を提供するために存在している。 皆さんにとって、今まで見えていなかったものが見えるようになるよう願って。
- posted by lよっひ~ |
- 21:41 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2007年07月25日
増殖する南北問題
どうやら私はとんでもない勘違いをしていたようだ。 以前の記事で、この国における毎年の過労死者の数は「300万人」と書いたが、実際は「300人」の間違いだったらしい。 ただ、その数の多い少ないに関わらず、毎年過労死者は確実に出ているわけで、そういう現実がこの国に存在する、という事実そのものを、胸に留めておいていただけるとありがたい。 で、その過労死者の正確な数が分かったのと同時に、もっとショッキングな統計を知った。 ●http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-23/2007072301_02_0.html 「しんぶん赤旗」の記事なので、身が引ける人もあるかもしれないが、ぜひ目を通してほしい。 これは、この国での、毎年の「餓死者」の統計である。 餓死とは、読んで字の如し食料が枯渇し飢えが原因で死に至ることで、従来貧困や餓死は途上国の問題だと考えられてきた。 しかしこの統計では、1995年を皮切りに、毎年100人近い人が、この国で餓死によってなくなっている実態が明らかにされている。 この国での貧困の問題が「格差社会」と名付けられて久しいが、「貧困」と「格差社会」の決定的な違いは、「衣食住に不自由するかどうか」にあった。 日本では、どんなに仕事を失って、貧乏になろうとも、衣食住には困ることはない、という暗黙の前提があったように思う。 しかし、特に都市部におけるホームレスの数は年々増加の一歩を辿り、まず「住」の自由が失われている現実を、私たちは既に目の当たりにしている。 そして今、この国では「食」の自由ですら、脅かされるようになってきている。 世界の貧困の問題は、通称「南北問題」と呼ばれてきた。発展の途上にあり、食べる自由すら維持できない南の国を、裕福な北の国が援助する、そんな構図があった。 だが、今現在、貧困の問題は「南北問題」という世界の問題だけでない。裕福だとされていた北の国の中にも、食や住を保障されない人々が現れ始め、いわば、北の国の内部にも「南北問題」が発生している、と言っていいだろう。 忘れてはならないのは、世界における「南北問題」が、アメリカが「アメリカ式経済」を南の国に持ち込んだことによって引き起こされた「人災」であったのと同じように、北の国の内部における貧困の問題も、人為的に引き起こされた「人災」であるという事実だ。 南北問題では、南の国から資源や人材を搾取することによって、北の国がその恩恵を得る、という世界レベルでの「格差」の流れがあった。 しかし、経済的に成熟した現在にあっても、「もっと豊かにならなければならない」という北の国の欲望はとどまることを知らず、今度は自分たちの国の内部に「格差」を発生させることにより、貧しいものを恐怖でコントロールし、富める者がその恩恵を得る、という流れを生み出した。 現在、この星では、2割の人間が世界の8割の富を独占しているのだと言う。これは、南北問題が生み出した一つの結果だ。 だがこれからは、人為的に生み出された「北の国内部の南北問題」によって、資源を独占するものはさらに絞られ、それと対称に、搾取される貧しき者の数が爆発的に増加していくだろう。 真実は一つだ。この国にも、住処を失うもの、餓死するものが現実にいて、既に貧困の問題は、ある特定の国の問題ではない。
- posted by lよっひ~ |
- 21:00 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月24日
スローライフは実現可能か?
『スロー快楽主義宣言!』という本を読んでいる(今度は図書館で借りた)。 エコロジーや、現在の環境破壊を生み出す心的な要因を自分なりに調べてきて、諸悪の根源は、現在の「消費主義社会」、つまり大量生産大量消費を推し進め、消費こそが快楽であり、競争と不満を原動力としてより大きく・強く・早くという政策を推し進めることこそが“発展”であり“進歩”であり“現実的”なのだ、という「幻想」にあることがおぼろげながら分かってきた。 環境に配慮した社会を実現するためには、まず“消費”という、従来私たちが一番の快楽だと思っていた認識を見直し、競争で人を競り落とすことでなく、共に生きる生産を良しとし、ないものを手に入れることを喜びとするのではなく、あるものを生かし、それを共に分かち合うことを喜びとする、そんな社会に転換していかなければならない。 そのために具体的な方策として、「対抗発展」や「スローライフ」と言う考え方は、これからのエコ社会の指針となる可能性を秘めている。 だが問題は、現在の社会状況で、本当に対抗発展やスローライフを実践して生きていけるのか、という部分で、そこがすべてのエコな人の一番の足枷になっているのではないか、と思う。 本当は自然に囲まれて暮らしたい、本当は今の仕事を否定して、本当に地球のためになる仕事がしたい、本当は自給自足で生きていきたい、本当はお金じゃなくてもっとかけがえのない価値を糧に生きていたい。 程度の差はあれ、きっとエコな人はみんなそう思っていて、その度に「でもそれで本当に生きていけるの?」という疑問が頭をもたげて、実行を断念する。そんなことを繰り返しているのではないか、と思う。 例えば、スローライフの総本山として、『NPOナマケモノ倶楽部』という組織がある。そのHPのトップには、7月24日現在、「ナマケモノ倶楽部と訪ねるエコ・スピリチュアル・ツアー」というエコツアーの案内が載せられていて、ツアー参加費一般45万円とある。 消費経済に頼らないスローライフを実践しながら、果たして45万という金額を捻出することはできるのだろうか。 誤解しないでほしいが、私はスローライフの生き方に大きく賛同している。私もこのような生き方ができるのならば今すぐにでもしたい、と思っている。 だが現実問題として「スローライフを実践していますが、どっこい私は生きています」という人に、いまだに巡り合ったことがないのだ。 ちなみに言うと、「スローライフ」という言葉を広く世に知らしめた辻信一氏は、学者であり大学教授でもある。辻氏はその学者業や教職で得られた潤沢なサラリーを糧にして、スローライフを“満喫”している。元々サラリーが保証された上でのスローライフなら実現可能だろうが、それでは、スローライフは「大金持ちの道楽」ということにもなりかねない。 スローライフを現実に根付かせるためには何をすべきで、今現在スローライフを実践している人たちは何をしているのか。 もう少し、調査が必要そうだ。
- posted by lよっひ~ |
- 22:01 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月23日
「職場環境」を環境問題として考える
本屋で『職場砂漠』という本を立ち読みする(買わなくてごめんなさい)。 この国の職場環境は想像以上に酷い状況になっているようだ。過労死や職場鬱は増加の一歩を辿り、パワハラやセクハラなどの職場内での嫌がらせの類は枚挙にいとまなく、成果主義の名の下上司は部下に牙を向き、同僚同士のけなしあい貶めあいが横行し、まさにいまや企業は地獄、社員はそこで狂気の犠牲となる恐怖に縛られながら仕事を続けている。そんな現代の職場環境を、この本の著者は、人間関係の乾ききった環境=砂漠と、社員がまるで砂粒が如く扱われている、という揶揄を込めて「職場砂漠」と呼んだ。 正確な数字は覚えていないが、過労死や仕事鬱で自殺する人の数は年間でおよそ300万人程度。もちろんその背後には、自殺“予備軍”となる人々がまた何百万人といて、さらにその背後にそんな苦悩や悲しみを抱える人々と関わる人々がいて、その数は何千万人という数に上る。 職場“環境”というくらいだから、この問題だって立派な環境問題で、しかもこの国における「職場環境問題」は、世界の環境問題よりも遥かに末期的状況にある。 問題は、年間に何百万人という犠牲がありながら、いまだこの社会は現在の成果主義社会や、右肩上がりの幻想を捨てようという気配はないということで、これはエコロジーに転用して考えれば、どんな世界の環境が取り返しのつかないところまで破壊されつくされようとも、人々は現在の経済体系や社会思想を捨てはしないであろう、という一つの実証であるとも言えるし、人間の悪意や欲望はそこまで根の深いものなのだ、という真実を告げる興味深い判例である、とも言える。 百歩、いや千歩くらい譲って動物や植物が蹂躙されている現在の事態に、それが異なる種だから、という理由で心を痛めることがない、という事実を理解できたとしよう。だが人間は、同じ“民族”の同じ“人間”が何百万という単位で虐殺され、蹂躙されても、今の生活や今の社会を変えようとはしないものなのだ。これはこの先、エコロジーを考える上で重要な事実として受け止めておいたほうがいい。 もしこれからエコロジーの重要性が今以上に増して、私たちが今以上に結束を強め、具体的で大きなアクションを起こそうと考えた時に、対峙するのは、それほどまでに大きな、そして悪意ある存在なのだ、ということなのだから。
- posted by よっひ~ |
- 19:41 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月23日
参議院選挙
参議院選挙の選挙公報が届いた。区議会選挙や区長選挙だと、まともに選挙公報が届いたためしがないので、今回こそじっくり公報を読んで、候補者を選ぼうと思っている。 だが、こうして改めて選挙公報を見てみても、いまいち誰に投票すればいいのか分かりづらい。 理由は大きく分けて2つあって、まず1つは、候補者ごとの“対立点”が非常に分かりづらいということだ。 今回の選挙は近年では珍しく争点が多い。年金の問題もそうだし、憲法改変の問題もある、環境問題ももちろん争点の一つに挙げられているし、格差の問題や増税の問題もある。 問題は山積みなのだが、それらに対する候補者の見解がほとんど変わらない。 年金はただちに不明部分を明確にしすべての人に等しく年金が分配されなければならない、憲法9条は守らなければならない、地球の温暖化は止めなければならない、格差は是正されなければならない・・・。みんな言っていることが一緒なのだ。 なので、候補者同士の対立点を見るためには、「ではそれらの問題の解決策として、具体的に何をするのか」を見極めなくてはならないのだが、その「具体策」について、公報で言及している候補者がほとんどいない。ほとんどの候補者が「抜本的な見直しが必要だ」とか「新しいシステムを構築すべきだ」などというばかりで、これではどの候補者に投票しても同じなのではないか、と感じてしまう。 もう1点は、これは東京の候補者に限ったことなのかもしれないが、「1人の力で政治を動かせる」という幻想に縛られている候補者が多いような気がする。 今回の選挙でも、個人立候補、無所属候補がけっこういるのだが、その政策を見てみると、例えば「高速道路を無料化しよう!」とか「インターネットで選挙ができるようにしよう!」とか、非常にミクロな政策を打ち立てていて、まず議員同士のネットワークというか繋がりによって成立する国会において、そんなミクロな政策が話題に上がることがあるのか、という疑問があるし、その人が当選すれば、独りの力でその政策が実現できるのか、と言われると、決してそんなことはない。 例えば、某発明家候補の政策を見てみると、すべての項目に「私の発明を採用すればこの国はもっと良くなる」と書いていて、この人はおそらく、いざ「私の発明」を採用しろ、という話になったときに、満場否決されれば、そこで自分が当選した意義が失われる、という事実を見ていない。 結局は、一番“まとも”な政策を掲げている候補者と、比例代表区は、とりあえず現状打破できそうな政党に投票する、という方法が一番妥当なのかもしれない。 妥当線で投票しなければならない、という時点で、何かが歪んでいる気もするが。
- posted by よっひ~ |
- 08:55 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)


