2007年08月31日
プラスチックが可燃ゴミに!?
わが街足立では、再来月10月から なんとプラスチックが可燃ゴミになるらしい。 もちろんプラスチックという素材自体は、超高温で熱すれば燃やせることがかなり前から知られてはいたが、ゴミとして廃棄する際には、「不燃ゴミ」として出すことが、これまでの、そして全国的な「常識」だったと思う。プラスチックが可燃ゴミとして処分できれば、不分別によるゴミ焼却時の大気汚染や、埋め立てによる環境の破壊などを防ぐ効果も期待でき、これまでの「常識」が覆される、という意味では全国に先駆けての画期的な試みだと思う。 しかし、プラスチックを燃やすためには、それだけ大量のエネルギーが必要となり、それだけのエネルギーを維持することで、却って環境汚染に繋がる可能性も否定できない。 エコロジー的には今回の試みをどう捉えればいいのだろう。 だが、自治体がプラスチックを可燃ゴミとして認めた、という先例としては、足立の試みが、他の地域の先駆けとしての判例となる可能性もある。 面白いことになってきた。
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2007年08月31日
color-flow
「color-flow」というスピリチュアル&ロハスなイベントに参加するために、表参道まで行ってきた。 会場は、表参道の表通りからちょっと奥へ入ったダイニングバーで、地下1階でライブをしながら、1階で食事ができる、という所だった。 私はmixiからイベントの参加を表明したのだが、こともあろうに「よっひ~」の名前で予約を取ってしまったので、「田中様」「鈴木様」と普通に名前が並んでいるところに一人「よっひ~様」の名前が。あほだねー。 昔アンビエントミュージックが流行った頃には、スピリチュアルのイベントと言うと、いわゆる「瞑想系」のイメージがあったものだが、今回のイベントは、どちらかと言うとクラブのパーティーに近い感じだった。これも「LOHAS」という新しい概念が定着したのと、江原さんなどがスピリチュアルを身近なものにしてくれた恩恵なのかもしれない。 「color-flow」は、毎回違ったテーマを据えることを特徴にしていて、今回のテーマは「グラウンディング」、地から溢れるパワーを感じよう、ということで、ライブも打楽器とダンスという土着的なもので、会場も「赤」と基調としたセッティングがなされていて、かなり「熱さ」を意識したようだった。 スピリチュアル&ロハスということで、スピリチュアルなイベントとはどういうものなのだろう、という興味から今回のイベントには参加してみたが、スピリチュアル、ということにこだわらなくとも、気軽に参加できるパーティーだったと思う。 おいしいオーガニックフードも食べられたし、代表のミリイさんとも話ができて、ついでにハグまでしてもらったので、もう大満足だヾ(*´∀`*)ノ
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2007年08月28日
エコという病理
昔、オウム真理教の事件が世の中を騒がせていて、メディアや報道がオウムの残虐性を煽っていたことについて、「そういった、何にでも“正義と悪”“味方と敵”を分けて考えよう、という二元論がオウムという病理を生み出したのだ」という言説があった。 私も、物事を“味方と敵”に分ける考え方がどうしても好きになれない。 例えば、今で言うと「エアコン」がそうで、エコロジストの中では、エアコンを付けるのは悪いことでエアコンをつけないことが正義なのだ、というような論調を多く見かけるが、エアコンを付けるのはそんなに悪いことなのだろうか、という疑問がある。 例えばエアコンを発明した人は何を思ったのだろう。エアコンと言う装置を発明した時、おそらく彼はこれで暑さに苦しむ人を救えるだろう、子供たちに今よりもいい未来を残せるだろう、と喜びに打ち震えていたはずだ。 エアコンの発明者が存命なのかどうかは知らないが、彼が死ぬときには、子供たちの笑顔に囲まれながら、「私はこの子供たちに、快適な未来を残すことができたのだ」という誇りを胸に、安らかに死んでいくのだろう。 ダイナマイトを発明したノーベルは、自らの発明が大量虐殺に利用されることに胸を痛め、ダイナマイトの発明によって得た莫大な資産を元にノーベル賞を設立した。それでもダイナマイトによる虐殺は止まらなかったわけだが、ノーベルは「良いことをしたのか、悪いことをしたのか」と言われれば、「良いことをしたのだ」と断言していいだろう。 それと同じで、結局エアコンは大量の電力を消費し、環境とオゾン層を破壊する原因となってしまったが、だがエアコンが発明されたことが「良いことか悪いことか」と問われれば、やはり「良いこと」であることに間違いはない。 勘違いしないでほしいが、私は「だからエアコンをがんがん使ってもいいではないか」と言いたいのではない。 エアコンの使用はリスクを伴う、ということを理解したうえで、エアコンの存在意義だけは認めるようにしないと、「エアコンは敵だ」という二元論に繋がってしまい、結局それが「エコロジストだけが味方、世の中の人間はみんな敵」という拡大解釈に結びついてしまうと、ついには「エコという病理」と世の中から呼ばれるようになってしまうのではないか、と思うのだ。 例えば割り箸は敵なのか、プラスチックは敵なのか、レジ袋は敵なのか。 そして、そんなに血まなこになってまでして「敵」を設定して、我々は何をしようというのか。 世が暴走するこんな社会だからこそ、エコについて考える時には、「自制の心」が必要なのではないだろうか
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2007年08月27日
eco-ego
「eco-ego」というゲームを紹介します。 これは「MARUKIN AD」というデザイン会社が製作した、「エコロジー体験ゲーム」です。操作は、いわゆる『シムシティー』の要領で、リアルタイムに変化する環境や状況に合わせて、プレイヤーが左上に表示されているアイコンを操作して、主人公である宇宙人(っぽい人)をエコ生活に導きます。 このゲームの面白いところは、“エコ”と“ストレス”を両立させなければいけないところ。エコばかりに気を取られてしまい、例えば暑いのにクーラーをつけないでいると、ストレスがたまって宇宙人は死んでしまいます。だからそういう場合には、設定温度をなるべく高くして、暑い間だけエアコンをつけて、涼しくなったらすぐに消す、という瞬時の判断が要求されます。 ゲームの目的は、エコとストレスを見事に両立させて、自然を破壊することなく、宇宙人を“6分間”生き延びさせること。やってみると分かりますが、けっこう難しいです。 Flashを使ったインタラクティブゲームなので、プレイヤーの操作しだいで風景もいろいろ変化して、面白いです。皆さんもぜひやってみてください。 ちなみにこのゲーム、超有名アダルト系サイトで紹介されているのを転載させていただきました。奇妙な繋がりもあったものです(笑)。
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2007年08月26日
動物実験に見るこの国の排他性
とあるブログで聞いた話で、「国際代替法会議」という国際会議が日本で開かれ、そこでEUヨーロッパ連合では、2009年から化粧品の動物実験が禁止する、と表明したらしい。 世界各国で動物実験に関しては非難が高まっており、京都議定書には批准していないアメリカでさえ、動物実験は規制する動きを見せている。 そんな中、先進国で唯一、動物実験をまったく規制していない国がある。 何を隠そう、この日本なのだ。 EUは遺伝子組み換え食品に表示義務も厳密化しており、こういった環境問題に関する決議が非常に早い。 そのことについて私も思うところがあって、そのブログに「EUではそういう議論が活発なのに対して、日本が常に立ち遅れるのは、人種や立場や利害の衝突が日本にはなく、様々な意見が交わされる環境が日本にはないからだ」というようなコメントを載せた。 そしてそのコメントの最後に、「一番の理想は、日本の政治の場に日本人がいて白人がいて黒人がいて、というような多様性を持たせることだ」と書いて締めとした。 そのコメントを書いた後で思ったのだが、例えばアメリカの議会では、アメリカの国籍さえ持っていれば、白人でも黒人でも人種を問わず政治の場に就くことができる。EUも然りだ。 なぜアジアにはそういう風習が生まれなかったのだろう。日本は他国から一度も侵略を受けたことがないから、ということで説明はつくが、そういえば中国や韓国でも白人や黒人の議員を見かけない。 おそらくアジアでは異人種の国籍取得を認めなかったからなのだろうが、ではなぜ認めなかったのか、ということには興味がある。 思い出したのは日本の相撲のことで、現在朝青龍の病状がどうとかいろいろ騒いでいるが、そういえば日本の国技に外国人を参加させるのはどうか、という議論はずっと前からされていて、いまだ解決には至っていないはずだ。なんとなくアジアの国々は、「自国の問題に他国は口を出すな」という主張があるようで、相撲における排他性と、政治における排他性がだぶって見えてしまう。 一番の疑問は、政治においてそのような排他性をもった上で、経済面だけ国際化しよう、というのには無理があるのではないか、ということだ。 環境問題でも同じようなことが言えて、政治の場が国際化されないで、環境保護の面で世界を引導するのには無理があるような気がするし、そういった矛盾を放置したままでは、環境問題の解決は難しいような気がする。 はやく日本も真の意味での国際化を成し遂げ、できることなら、動物実験などやめてもらいたいところなのだが。
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2007年08月25日
ビジュアル系少女の命が今も灯っている理由
かのX JAPANが解散を発表したとき、ワイドショーではこぞって街の人々の反応を取材していて、その中、原宿にいたいかにもビジュアル系バンドのファンだ、という奇抜な衣装を纏った女の子が、こんなことを言っていた。 「私はX JAPANがいてくれたおかげで自殺を思いとどまることができたんです。だから解散のニュースは本当に悲しいです。」 なぜ今さらこんなことを思い出したのかと言うと、同じ『エコナコト』の中の、『エコダー』というブログで「ソウルフラワーユニオンこそが本当に音楽で人を救っているミュージシャンの代表格だと思います。」という記事が掲載されていて、では逆に偽善で人を救ったり、あるいは人を救うことのできないミュージシャンがいるのだろうか、ということを考えた時に、彼女のことを思い出したからだ。 おそらくX JAPAN本人は、明確に人を救おうとか、世の中にメッセージを残そうという意志を持って活動はしていなかったかと思われる。ビジュアル系ということで世間に対する若干のアンチテーゼはあったのかもしれないが、たぶん考えていたことがあるのだとすれば、「音楽で一体になろう」とか、「不満やいらだちのパワーを音楽で爆発させよう」とか、その程度のことだったのではないか、と思う。 だがX JAPANは、その活動の中で、確実に世の中に対する影響力を持ち、結果一人の女の子の命を救うに至ったのだ。 例えば失恋して本当に打ちひしがれていたときに、ラジオから流れてきたドリカムの曲に救われたとか、世の中に絶望してふさぎ込んでいた時に、浜崎あゆみの曲の歌詞を見て、自分だけじゃないんだと思うことができたとか、そういったエピソードは方々で聞くし、おそらく人各々の中に、そういった「音楽と救い」に関するエピソードは眠っているのではないか、と思う。 別に音楽でなくてもかまわない。仕事で疲れていたときに、同僚の元気に励まされたとか、落ち込んでいた時に、友達がなんでもない用件で電話をくれて、そのことで気持ちが軽くなったとか、人生とはそんな「小さな救い」の連続で成り立っている。 結局人は、生きて何かを為している、ただそれだけで、本人が望む臨まないに関わらず、誰かを救っているものなのだ。 だから特別人を救っているとかいないとか、それが本当なのか偽善なのかはさしたる問題ではなく、人前で歌を歌っている、ただそれだけで、100万枚CDを売ろうが、ストリートで一人ギターをかき鳴らしていようが、平等に人を救っているのだ、ということでいいのではないだろうか。 命が平等であるように、人を救う力だって、だれもが平等に持っているものなのだ。
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2007年08月24日
ブログの方針
なんか、環境問題について、言いたいことは言い切ったような気分になっている。日々のニュースの中で思うことはあるのだが、だいたいが批判的な言及になってしまい、無理くりにイライラするのに疲れてしまった。 ブログの記事を見ると、何か自分はことあるごとに世間に対して怒っているような、昔風に言うなら「雷おじさん」みたいなキャラになってしまっているが、実際には私は滅多なことでは怒ったりしない。 私自身の記憶で言うと、私は高校2年の時から1度も本気で怒ったことがない。 割り箸を使っている人とか、ゴミのポイ捨てをしている人とか、確かにやっていることは良くないことなのかもしれないが、割り箸を使いたくなったり、ゴミのポイ捨てをしたくなる気持ちは分からなくはないので、例えば目の前でゴミをポイ捨てされても、「あらあら」と笑って、黙って自分がそのゴミを拾うようにしている。 要するに、もう世の中のことに対して怒る、というスタンスで環境問題に向き合うのは飽きた、ということなのだが、じゃあ世の中と向き合わないで環境問題を語るのか、と言われるとなんだかそれも難しい気がする。 はてさて、どうしたものやら。
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2007年08月22日
クルマ社会を越えられるか
今日の新聞。1面に「トヨタ自動車が2009年までに1000万台の自動車を世界で販売する計画を打ち立てた」というニュースが載っていた。もし実現すれば世界初の快挙らしい。 同じ新聞の13面。「論点」というコーナーで「脱クルマ社会の整備が急務だ」と訴えていた。京都議定書の温室効果ガス削減目標を達成するためには、車がなくても移動に困らないインフラの整備が必要だ、と。 どないせえっちゅうねん、という突っ込みが聞こえてきそうだが、あまり笑える事態ではない。 環境のことを考えると、脱クルマ社会の実現は、最も身近で最も効果的に環境に貢献できる方法だ。自動車を世界から少しずつ減らしていかなければならないのだが、特に日本の場合、トヨタという企業は言うなれば「国益代理人」みたいな側面があって(現にトヨタの社長が現経団連の会長だったはずだ)、トヨタを潰してしまうことは、国全体にとっても大きな痛手になるということもあって、そう簡単に脱クルマ社会を認めようとはしないはずだ。 京都議定書の問題もあるので国内で自動車販売の増収を狙うことにはリスクが伴う、と考えると、おそらくトヨタの戦略としては「1000万台を“世界で”販売する」と述べたとおり、途上国での事業拡大を目指すだろう。 となると、計画通りに事が進めば、途上国での自動車の量が増え、それに伴って自然と途上国で排出されるCO2の量も増える。それを、以前に記事にも書いた「クリーン開発メカニズム」で買収すれば、日本は自らの土地や自然に一切手をつけることなく、国益だけを途上国からむしりとることができる。 考えてみるとなかなかうまい作戦だ。 トヨタやホンダなど、日本は自動車産業が経済を大きく牽引してきた側面がある。しかし、「自動車は世界の(環境の)敵だ」と見なされた場合、経済と環境保護の両立をどう図ればいいのだろう。京都議定書の問題と相まって、その辺りも、これからのこの国の大きな課題になっていくような気がする。
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2007年08月21日
竹炭のミネラルウォーター
「福しん」という、東京近郊のみでチェーン展開している定食屋さんがあって、じつはそこではかなり前から「竹割り箸」を使っている。竹は他の森林資源より生育が早く、効果的に伐採利用することにより永続的に利用可能になるという持続可能資源であり、エコロジーという言葉が広がる前より竹割り箸を積極的に活用していた、という点ではかなり先進的なことをしていたのである。 その上、その割り箸をきちんと回収、洗浄し、なんと「竹炭」としてリサイクルしている、というまさにエコロジーの模範生みたいなことをやってのけているのだ。素晴らしい。 竹炭には、脱臭効果や除湿効果があり、靴箱やタンスに入れておくと消臭剤の役目を果たすだけでなく、なんと水道水に入れることにより、水道水をミネラルウォーターに変えてしまう効果もあると言う。 最近私もマイ水筒ことペットボトルを持ち歩くようになって、家から自分で作ったお茶を持っていくようになったのだが、いかんせん水道水で作るのでその衛生面だけが気になっていたので、これはいいと、早速竹炭を購入してみた。 こんなもの。割り箸を燃やして炭にしているのでかなり細い。で、ミネラルウォーターの作り方。 まず、炭を熱湯で5分ほど煮る。理由は分からないが、説明書きにそう書いてあったので言うとおりにする。
そしてそれを茶こしに入れる。それで完成。
あとはこれをポットなり水筒なりに入れて、一晩置けば、水道水がミネラルウォーターに早代わり、しているのだそうだ。 実際出来上がったものを飲んでみると、確かにただの水道水より「柔らかい」飲み心地になっている、気がする。プラシーボ効果?
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2007年08月20日
マイ箸マイバッグの意味
地道な活動が実を結んで、一般にもかなり普及してきたと思われる「マイ箸・マイバッグ」だが、ところでマイ箸マイバッグ運動によって、実際割り箸や買い物袋の生産、受注量は減ったのだろうか。 マイ箸マイバッグの直接の効能は、割り箸や買い物袋の消費を減らせることにある。しかし、マイ箸マイバッグの本来の目的は、消費を減らすことにより、最終的には割り箸、買い物袋の“生産量”を減らすことであって、例えば飲食店で 「今月はマイ箸持って来た人が多かったから割り箸の消費も少なかったね~。じゃあ余った分は古いし捨てちゃおうか」 ということでは、マイ箸マイバッグ運動がまったく意味を成さないのである。 要するに、例えばスーパーで買い物袋製造会社との契約を打ち切ったとか、割り箸製作工場が閉鎖に追い込まれた、とか、そういう成果が出て初めてマイ箸マイバッグ運動は“効果があった”と言えるのだが、今のところそのようなニュースを耳にすることはないし、割り箸製作工場も、従業員の生活がかかっていたりするだろうから、どんなに割り箸の消費量が減ろうとも、「月契約で毎月何本割り箸を配給します」という形で企業と契約を結ぶことにより、割り箸の生産量を維持しようとするだろう。 この間、某所の牛丼チェーン「吉野家」で、店内の割り箸がすべてプラスチックの箸に変更されているのを見た。他の吉野家ではいまだに割り箸を使っているところからするに、その店が全国の中でも先駆けてリユース可能な箸の利用を実験的に行っているのか、あるいはその店の店長がとりわけエコに積極的な人だったのか、まあ何にしろ、そのような“変化”があって初めて、マイ箸マイバッグ運動は意味を持つのだ。 本当は、個人がマイ箸やマイバッグを使うより、みんなでお金を出しあって、大量のプラスチック箸を飲食店に寄付する、という方法のほうがよっぽど効率的なエコ活動なのかもしれない。 だがそれでは、「個人がエコロジーに寄与する」という責任感みたいなものが消散してしまうのだろう。なかなか難しい。
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