蜜に群がる蟻

 ミャンマーの反政府デモは、軍事政権によるデモの「制圧」で幕を閉じた。一時は10万人規模に膨れ上がったデモの参加者も、現在は数千人にまで縮小したという。
 軍が一国を治めることの是非や、今回のデモに対する対応の是非は、今後問われることになるだろうが、ひとつ確認できたのは、

 「10万人規模の人民の力でさえ、やりようによっていくらでも叩き潰すことが可能だ」

ということだ。
 
 そろそろ、人民の力が「力」として効果を発揮するのは、どのような方法においてなのか、再考する時が来ているのではないだろうか。
 例えば、5月のゴールデンウィーク中には、「9条を守る会」などが憲法9条を守るために都内をデモ行進している姿をよく見かけた。
 9条に限らずとも、「ピースウォーク」の類は、何年も昔から全国各地で行われ続けてきたが、ピースウォークがきっかけとなって、争いや闘争が終結した、という話を私はいまだに聞いたことがない。
 例えば7月に行われた参議院選挙。エコロジー系サイトでも、「私たちの1票が世界を変える」などと投票を推進したり、「環境を守るマニフェストを」と、署名を集めて候補者に渡す運動をしたりしたようだが、選挙が終わって2ヶ月、いまだに「じゃあ選挙が終わったので、こういうエコ計画を打ち立てたいと思います」という立案や行動を1度も見ていない。

 最近のニュースで言うと、沖縄の「『集団自決』の記述を巡る教科書検定問題」の抗議集会に参加した人は11万人いて、沖縄ではその11万人分の署名を文部省に提出する計画なのだそうだが、文部省からしてみれば、遠く離れた沖縄の地で11万人集まられても、「対岸の火事」のような感覚で、危機感を持つことは難しいだろう。

 先に「人民の力が「力」として効果を発揮するのは、どのような方法においてなのか」と書いたが、それは逆に言うと、「デモや集会では世の中の何も変えられない」と、そろそろ割り切ってしまったほうがいいのではないか、ということでもある。

 勘違いしないでほしいが、私はミャンマーのデモにおける軍部の対応を支持しているわけではないし、逆にミャンマーの人民はデモではなくてクーデターを起こすべきだった、と考えているわけでもない。
 ただ、世の中の仕組みを変える手段として、デモや集会は既に時代にそぐわなくなっていて、エコロジーや平和活動のような場合でも、まず「デモや集会では世の中の何も変えられないのだ」という前提から話を進めていかないと、空回りな運動が延々と続けられるか、あるいは大きな悲劇が待ち構えているか、のどちらかしか道は残されていない、ということが、ミャンマーの事件における「重い教訓」だったのではないか、と考えているのだ。

東京サーマルリサイクル

 私は何かとんでもない勘違いをしていたらしい。

 以前に記事でも紹介した、「東京都が可燃ゴミと不燃ゴミの区別をなくすらしい」という話で(「サーマルリサイクル」と言うらしい)、千葉県や埼玉県では、かなり昔から可燃不燃のゴミの区別はなくなっていて、私はなんできちんとゴミを分別しないのだろう、その点は東京は進んでるなぁ、と思っていたのだが、実情はまったく逆で、千葉や埼玉ではずっと昔から不燃ゴミも高温焼却できる施設があったのに対して、やっと東京でもそういう施設ができる、というのが実際だったようだ。

 私が住んでいる足立区某地域も、可燃不燃ゴミ区別撤廃の対象地域になっていて、私はてっきり足立区全体がそういうシステムに移行するのかと思っていたら、東京23区全体で、一部地域でのみ、実験的にシステム移行を行うようだ。このような形で、東京都がゴミ収集の方針を転換するのは、なんと34年ぶりのことらしい。

 東京都が重い腰を上げてサーマルリサイクルに乗り出したのにも理由があって、このまま不燃ゴミを不燃物として埋め立て続けると、20年後には、埋め立てた土地の領域が県境を越えてしまうのだそうだ。
 そこでサーマルリサイクルで、不燃ゴミを焼却できれば、埋立地が県境に達するのを、50年後に延長できるらしい。

 あまり意味がないような気がする。

 一番大切なのは、
 「まずゴミを出さない→リサイクル、リユースできる資源を使う→どうしても出てしまったゴミだけを焼却する」
 という順序を徹底することだ、と都の環境職員は語っているのだと言う。
 その通りに、都民の意識を変えていけるよう、都にもがんばってほしい、と思う。

カーボンオフセットってどうなの??

 『ecogloove』さんでも最新の話題にしていて、他のエコロジー系サイトを見ても何かと話題になっている「greenz.jp」を覗いてみた。
 
 サイト自体は今までにもあったような、いわゆる「エコニュース系ブログ」だが、記事内のハイパーリンクが充実していたり、カテゴライズがかなり細かく区分けされてたりして、ただニュースを流す、ということだけでなく、記事を検索したり、リンクから情報をサーフすることで輪を広げよう、という製作者の意気込みが見て取れる。

 ひとつ非常に気になったのは「カーボンオフセット」というものだ。確か私がこの言葉を初めて見たのは、雑誌「ソトコト」の中で、その時はさして気にしていなかったのだが、改めて調べると、どうやら
 「日常生活でどうしても出てしまうCO2を、エコ活動へ投資することでチャラ、ってことにしましょう」
 ということらしい。

 ということは、今やCO2は金で買えるもの、ということなのだろうか。例えば1000万円を植林活動をするNPOへ寄付すれば、その代価として、燃費の悪いディーゼル車をボンボコ乗り回す権利を手に入れられる、ということになるのだろうか。

 例えば、屋久島の縄文杉は、どんなに大枚をはたいても金で買うことができない。それは縄文杉が金で交換できる以上の価値を持っているからで、同じように例えば北極の氷なども等価交換できない価値を持っていると思うのだが、その北極の氷を破壊するCO2が金で買えてしまう、となってしまえば、間接的に、例えば30億円くらい払えば「個人が北極を破壊する権利」を持つことも可能になってしまうだろう。
 誰か「環境破壊の元凶となるCO2を金で買えるようにするなんてとんでもない!」と声をあげる人はいなかったのだろうか。

 そのあたりのカーボンオフセットのシステムがどのようになっているのか、非常に気になる。

 ついでに言うと、「greenz.jp」を1度閲覧すると、それだけでCO2を1gオフセットできる、ということらしいのだが、その資金源がサイト内のどこにも書いてなくて、それも非常に気になる。

争わない

 さて、最後に「争わない」ということですが、争わない、ということはもちろん暴力で物事を解決しないとか、競争主義に入り込まない、という意味を持つのですが、これのもう一つの軸として、「先頭に立たない」ということを強調しておきたいと思います。
 それは「率先して動かない」ということでもあり、「自分を表現して目立とうとしない」ということであります。要するに「謙虚であれ」ということなのですが、どうしても、エコロジー運動というもの自体、世間一般の流れと“少し”異なる部分のあるということで、「もっと自分を見てもらいたい」「もっと人々の先頭に立ちたい」という思いは、むしろ普通の人々より多いように感じます。
 そこで「自分を知ってほしい」「自分を見てほしい」という思いを自制すれば、不要な争いを避けることができますし、最終的にすべての人々が人の上に立つ思いを自制すれば、上に立つための欲を充足させるための競争はなくなり、結果それは、戦争や環境破壊のない世界へと、繋がっていくと思うのです。

「騒がない」の軸

 さて、「騒がない」ですが、これにも2つの軸があります。

 まず、怒りや嫉妬で「自らの心をざわつかせない」ということ。
 宮崎駿のアニメでは、よく人物が怒ったときに髪の毛や全身がふわっと逆立つ描写が見られますが、怒りや嫉妬の気持ちが起こったときには、気持ちが爆発する前に、胸の中に、そのような逆立つ思いが沸き上がるのを感じることができます。
 この逆立つ思いを自覚し、自分が怒っている、という状況に対して冷静でいることが大切なのです。「ああ、今自分の中に嫉妬や怒りが沸きあがろうとしているな」という予感を自覚できれば、それを抑えることも容易になるはずです。
 それは言うなれば、自らを律するという意味での平静、と言い換えてもいいかもしれません。

 もうひとつは、「楽しむ気持ちを節する」こと。
 楽しむこと、というのは基本的にいいことだ、と思われがちです。例えばエコロジーも、真面目に堅苦しく行うより気楽に楽しく行おう、というスローガンを良く見かけます。
 しかし、「楽しい」とか「愉快」という感情も、度を過ぎれば周りの人々の迷惑になったり、暴走すれば分別を失ってしまいます。宴会終わりで酔っ払っているおじさんの集団や、海でぎゃあぎゃあと騒ぎながら花火に興じる若者たちなどをイメージするとよいかもしれません。
 だから、「必要以上に楽しんではいけないのだ」「そんなに愉快でなくてもかまわない」というように、楽しいというポジティブな感覚に対しても、自らを抑制することが大切なのです。

平穏を支える3つの柱

 さて、エコロジーや平和な世界を構築するために必要な心の在り方が「平穏」である、と前回の記事では書きました。
 「平穏」に生きるために不可欠な3つの柱があって、それが

 '・求めない
 ・騒がない
 ・争わない'

 というものです。
 さらに細かく紐解いていくと、この3本の柱はそれぞれ2つの軸に分かれます。

 「求めない」という柱を構成する軸は、まず1つ「欲しない」ということです。
 贅沢をしない、情報を蓄えない、金を貯めこまない、・・・。要するに「ないものを他に求め、それを搾取しようとする」心を抑えよう、ということです。
 もう1つは、「期待しない」ということ。自分が為たことに対して見返りを求めたり、あの人ならどうこうしてくれるだろう、ああすればこうなるだろう、という算段をしない、ということです。

 「求めない」という概念は、最近では加島祥造さんの『求めない』という本が話題になったことで注目を集めていますが、今あるもので十分だ、今以上に何も欲しない、という気持ちが育めれば、搾取や、支配や、競争や嫉妬心をなくすことができます。そうすれば、資源を必要以上に浪費したり、争って平和を乱すようなこともなくなります。
 それに加えて、期待しない、自分のやったことが報われるだろう、という算段を求めなくなれば、期待が外れたり、報われなかったときに発する失望や怒りを抑え込むことができるでしょう。


 さて、「騒がない」「争わない」については、また次回。

平和より、むしろ平穏を

 なんだかんだと、10日ぶりの更新になってしまいました。

 その間に何をしていたのかと言うと、「BE-IN 2007」というピースイベントに参加したり、「戦争のかけら 平和のかけら 音のちから」というピースライブに参加したり、要するに「9.11」を期に、平和についていろいろ考えていました。

 この10日間で、環境問題についての関わり方とか、平和についての取り組み方などもいろいろ考えてみたのですが、結論として、回り回って「つきつめていけばココロの問題」という、このブログのテーマに行き着きました。
 
 1つ結論づいたのは、エコロジーというのは、あくまで「表層的」なものである、ということです。
 以前「対症療法と根本的解決」という記事を書きましたが、結局環境を破壊するもの、戦争をするのも人間の欲望が根源にある、というだけでなく、例えばグリーンピースのように、「環境を保護するために破壊的行動に出る」集団もあれば、環境保護団体の内部でも嫉妬や怒りによる内紛や暴走があったりして、つまり地球の環境を守るのにも、戦争をやめて平和な世界を築くのにも、まず「人間の欲望や否定的感情」をなくす努力をしなければならないのではないか、と思うのです。
 言い方を変えれば。どんなにエコな活動をしたにしても、環境を破壊する、あるいは環境破壊に繋がる人間の欲望を消し去る努力をしなければ、環境保護、という意味でのエコ活動の成就は難しいのではないか、と思うのです。

 そういう意味で、今人類に最も必要な物は「平穏」なのだと思います。平和、ではなく平穏。
 求めず、騒がず、争わず。海に漂う水の如く、地になびく風の如く、ただ穏やかで何もないことを是とすること。
 今日よりも明日がいい日であるように、と願うのではなく、今日と明日が同じ日であるように、と願うこと。いつかはお金持ちに、と願うのではなく、いつまでもこの暮らしのままで、と願うこと。楽しいことがあるように、と願うのではなく、何もない日が続くように、と願うこと。

 そんな「平穏」をすべての人が是とすること。それが、平和、そして環境保護に繋がる、すべての根本なのだと、考えました。

語るべきこと、聞くべきこと

 仕事柄、ご年配の方とお話しする機会が多い。私はご年配の方の話される、この国の歴史やその人なりの人生を聞くのが好きなので、仕事をそっちのけで話に聞き入ってしまう。

 今日話をしてくれたのは、関東畳協会の会長も務められたという、畳屋の棟梁の方で、今は東京に住んでいるが、元々は秋田の出身だったのだそうだ。
 一度秋田から東京へ畳職人の修行を積みに来て、一度は秋田へ帰ったのだそうだが、東京への憧れを捨てきれず悶々としていたところ、地元秋田で受注した仕事が、東京電力の寮の設営で、偶然東京の職人と共同作業することになったことを機に、東京へ戻る伝ができたという。
 しかし、かつて修行を積んだ畳屋は株式会社化され、かつてそこで働いていた職人は新社長によって追い出しを掛けられていて、怒った職人たちは社長を告訴し、8年間に渡る裁判の末、現在の職場の土地を勝ち取ることができたのだと言う。

 日本の古き良き文化が忘れられていくとか、戦争の記憶が忘れられていくとか、よく言われているが、私たちはもっと、こういう身近にいるご年配の方の話に、耳を傾けるべきではないのだろうか。
 以前の記事にも少し書いたが、終戦の年に生まれた人は現在60歳。まだまだ現役で、終戦の復興から高度経済成長、そして現在まで語ることができるだろう。
 近くにご年配の方がいる人は、ぜひ聞いてみてほしい。

 「ねえ、このあたりって、昔はどんな感じだったの?」

ユニクロで自社製品のリサイクル開始

 「エコナコト」のTOPページが新しくなって、ページ下部に「エコニュース」の欄が加わった。

 そこのエコニュースにも以前掲載されていたもので、今全国のユニクロでは、自社製品をリサイクルするための回収を行っている。
 ユニクロでは昔から、自社製造のフリースのリサイクル事業を行っていて、ユニクロで買ったフリースならいつでも回収してリサイクルしてくれていた。エコニュースによると、2006年からその間口を「ユニクロ全製品」に広げ、毎年9月と3月に一斉回収を行うようになったのだそうだ。
 じつはユニクロ店頭では、6月ごろからリサイクル回収の告知を行っていて、以前からリサイクルのことは知っていたので、今日地元のユニクロへ、使わなくなったユニクロの製品を持っていった。
 特に回収コーナーのようなものがあるわけではなく、レジの店員さんに回収の旨を伝えるとその場で引き取ってくれる。
 
 引き取った製品はリサイクルされ、途上国の人々や難民へ寄付されるらしい。9月いっぱいまで回収は行っているので、眠っているユニクロ製品がある方はぜひどうぞ。

一番の元凶

 インターネットの闇サイトで知り合った3人の男が、まったく無関係の女性を拉致し、殺害した事件が話題になっていて、メディアではその残虐性、猟奇性などが相変わらず報道の焦点になっているようだが、メディアも世間も、もうこういう猟奇的な事件に対し、その原因を究明し抑止しようとするのを諦めてしまったようにも見える。
 インターネットの闇サイトを取り締まればよい、という声もあるようだが、インターネットはただの「手段」であって、例えば包丁を使った殺人事件があった場合、包丁の生産流通を止めれば殺人は抑止できるのか、と言われればそうではない、というのと同じで、インターネットを取り締まること自体に、犯罪を抑止する力はない。

 問題は、「なぜそのような猟奇的な人間が生み出されるのか」、という“犯罪者の生成過程”にあるのだが、とりあえず今回の事件について分かっているのは、この3人の男は、常識人、いやそれ以上に「知識」と「情報」を有していた、ということだ。
 何しろインターネットの情報の海の中で、件の闇サイトを検索し見つけ出し、メールやチャットを通じて、文字のみのコミュニケーション、意思疎通を行い、綿密な計画と周到な準備を整えた上で、凶行に走ったのである。
 昔は犯罪者、と言えば社会から落ちぶれた者、言うなれば「知識」や「情報」を持たないものがなるものだったが、現在では犯罪者は、膨大な「知識」と「情報」を有する者が、「道徳心」や「倫理観」を失うことで凶行に走る、という傾向に変わっている。

 そこで環境問題とも繋がってくるのだが、環境問題でもよく、ゴミのポイ捨てや資源の無駄遣いを見るにつけて、「自然や未来の地球に対する想像力や道徳心の欠如」が問題とされる。
 つまり、現在の犯罪や環境問題における一番の根本的問題は「なぜこの国では、こんなにも想像力や道徳心が欠如した人間が生み出されるようになってしまったのか」という点に凝縮されるのだ。

 
 ・・・と、問題提議をしておいてなんだが、その問いについては、おそらく答えははっきりしている。
 「想像力と道徳心の欠如した人間を生み出そうという“明確な意図”が、国と社会にあったから」である。
 どういうことか。この国では、想像力と道徳心は「反社会的行為」の心理的土台となっていた歴史がある。
 古くは明治時代の自由民権運動から、大戦下の反戦運動、戦後の学生闘争に至るまで、これらの運動を指揮していたのは、作家や活動家など、いわゆる「インテリ」の人々であり、彼らを突き動かしていたのは、「国や人々の未来に対する、想像力と道徳心と、そして正義感」であった。言い方を変えれば、かつてこの国には、国や社会がトップダウンに提示した“生き方”に対して、堂々と、そして時に過激に「NO」を叩きつける人民の力があり、その力を支えていたのが、想像力、道徳心、そして正義感だったのだ。
 
 つまり逆に言えば、国や社会や企業が、人々を従わせ、抑圧するのに、想像力と道徳心は邪魔だったのである。
 なので、国はまず「メディア」の力を使い、かつて「3種の神器」と呼ばれたような、「これを持っていないと幸せになれない」というような情報を流布することによって、物質的豊かさこそが、本当の幸せなのだ、と人々の目を一つの方向に向かせるよう仕向け、その上で「偏差値教育」のような、「知識偏重」「情報偏重」の教育、社会を作り出すことによって、「知識や情報だけを持ち、想像力と道徳心を持たない人民」を作り上げていったのだ。

 そういった人民を作り出すことは、「反社会的行為」を生み出す温床を根絶する、という狙いもあったが、何より「仕事の内容はどんどん覚えられる代わりに、それが正しいことなのか内省する力がない」人間の創造は、経済発展を推進し、日本が先進国となるための、最も“合理的”な手段でもあった。

 つまり、想像力と道徳心の欠如した人間が生まれることは、国や社会が何より望んだことだったのだ。
 だが、そこにはやはり欠如していた視点が1つだけあった。
 「日本の近代化が終了した後、これらの人民が国をどう動かしていくのか」という、未来への想像力である。
 バブルの終焉と共に、日本の経済発展はとりあえずの終焉を見せたが、経済発展のために生み出された「想像力と道徳心のない人間」はどうすればいいのか。人間である以上、物のように処分するわけにもいかない。その問題を、うやむやに放置していくうちに、想像力と道徳心の欠如は、やがて「欠如」ではなく、「欠損」そして「崩壊」へ進み、道端にゴミをポイ捨て、資源を無駄遣いし、そして、闇サイトで出会った人間が、顔も知らぬ無関係の女性を殺害するまでに至ったのだ。


 今私は「日本」のこととして、これまでのことを書いたが、これは何も「日本」に限ったことではなく、近代化を完了した先進国すべてにおいて共通に言えることなのではないか、と思う。
 これが今私の“想像力”で語りうる、この国の諸問題の一番の元凶だ。間違っている部分もあるかもしれないが、ゴミのポイ捨てや、資源の無駄遣い、あるいは猟奇的な事件が発生した際、「この国の人は、未来に対する想像力や道徳心を失くしてしまったの!?」と思ったときに、「ああ、確かこんな意見もあったかな」と、この記事のことを頭の片隅に思い出していただけると、ありがたい。