2007年10月31日
ecotonoha
そういえば、これの知名度はどれほどあるのだろう。 『NEC ecotonoha』 NECが行っているエコ事業の一環で、いわゆる「クリック募金」に似たようなものなのだが、スタートさせると、1本の大きな木が画面上に現れて、そこにメッセージの「葉」が次々と植えられていく。 最後まで見ると、次は自分の番となり、自分が好きな場所にメッセージの「葉」を植えることができる。 実はそれまで見ていたアニメーションは、当日朝から世界中の人が植えていった「葉」の形跡そのもので、メッセージが多くなればなるほど、木はどんどん大きくなっていく、という仕組みだ。 そして、この葉が100枚に達するごとに、NECがオーストラリアに1本植樹をしてくれる、というシステムだ。 アニメーションによる視認性の楽しさや、そのユニークなシステムが評価されて、2005年にはグッドデザイン賞も受賞したという、由緒あるエコ事業だ。 もし時間がある方は、クリック募金と一緒に、ネットの木を一緒に育ててみては?
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2007年10月30日
できることなら誰も批判せずに生きたい
最近、記事を連日書くときと、しばらく休みを取る時とで、両極端に分かれている。 9月頃に「平穏な世界」について少し書いたが、その辺りから、「とりあえず社会や誰かを批判するような記事を書くのはやめよう」と思い始めた。 環境問題と言うと、現状の世界を転換させようという動きになるから、とかく現実を批判しがちだ。 なぜ戦争なんてするんだ、なぜゴミのポイ捨てなんてするんだ、なぜ原発を動かすんだ、なぜ森林を破壊するんだ、人々は何をやってるんだ、教育はどうなってるんだ、政治家は何とかしようと思わないのか、世の中間違っているんじゃないか、イライラムカムカ・・・。 もちろん現実に何らかの間違いや欠陥があるからこそ、環境破壊が起きるのであって、根本的に環境問題を解決していくためには、その間違いを是正していかなければならないのだが、そういう社会へ向けてのアプローチを別にして、私個人のことで言えば、私はできれば衝突や論争や競争や諍いは避けて生きていたいのである。 個人的な理想で言えば、私はどこかの山奥へ隠遁でもして、ゆっくり生きていきたいと思うのだが、それでも地球そのものが壊滅してしまったら、隠遁も何もない。だからこそ、いろいろ考えていかなければいけない、と思うのだが、意外とこういう考え方は都会的なのかもしれない。 とにかく、気功に「内気」と「外気」があるように、「内なる自分」と「外へ向けた自分」のバランスを取っていくことが大切なのだ、と思うが、なかなか難しい。
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2007年10月25日
未来を取るか今を取るか
田中優さんの話を伺って一つだけ気になったことを。 田中さんの話では、環境破壊の悪循環が復興可能な範疇を超えてしまう、いわゆる「ポジティブフィードバック」が始まるのが、最悪の場合今から10年後、ということだった。その10年の間に根本的な対策を取らなければ、破壊の雪玉は転がり始め、どんどん巨大化し人間の手で抑えることは不可能となる。 そして、雪玉の崩壊、つまり人類滅亡は100年後~200年後になる、と。 問題なのは、ポジティブフィードバックが始まるのが10年後だったとして、実際の人類滅亡までには、90年のタイムラグがある、ということだ。 つまり、「地球はもう再生不可能です」という宣言が出てから、実際の地球の崩壊までに猶予時間がある、ということだ。 田中優さん本人もそうらしいが、実際今現在環境問題に携わっている人たちの根本的な「動機」は、今の自分たちの世界を憂慮する、ということ以上に、「次の世代、自分たちの子供たちの世代にきれいな地球を残したい」ということに比重が置かれていると思う。 環境問題に携わる人たちが「次の世代」に比重を置いている、ということの裏返しとして、環境問題に批判的な人たちは「今の自分の生活」に比重を置いていると思う。 私が問題だ、と思うのは、ポジティブフィードバックから実際の滅亡までにタイムラグがある、ということが事実なのだとすれば、じゃあそのタイムラグの期間に環境問題を何とかしよう、と思う人間よりも、そのタイムラグの間に「逃げ切り」を図ろうとする人間のほうが多くなるのではないか、ということだ。 以前にも、今や先進国のすべての人間が「先進国であるという既得権益を守ろうと必死になっている」という記事を書いたが、今の資本主義的精神構造の中では、「崩壊する前に何とかしよう」と考える人より、「崩壊するならツケは次の世代に回してしまおう」と考える人のほうが多い。 つまりポジティブフィードバックが始まることで、意図的にツケを次の世代に払わせようとする動きが加速化するのではないか、と思うのだ。 だからこそ、実際にポジティブフィードバックが始まる前に環境破壊を食い止める、ということ以上に、「意識的にツケを次の世代に払わせようとする」人々精神構造を何とか変えていかなければならない、と思うのだが、田中さんの思想の中に、そういった人々の精神構造の問題は勘定に含まれていなかったように思う。 というよりも、環境破壊は「精神構造」の問題だ、という観点で理論展開している人がまだ少ないのだ。 そういった人が、田中さんの実践理論と絡ませて多角的に環境問題を論じられるようになれば、もっと話も飛躍するだろうに、という印象を持った。
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2007年10月23日
ap bank work shop 第2回
ap bank work shop第2回が行われました。本日のまとめを。 今回の講師は「未来バンク」代表であり、ap bankの監事でもある田中優さん。環境問題に携わったことのある方なら、必ず一度は目にする、その道の超有名人です。 お話は基本的に田中さんの著書『人類滅亡のシナリオは回避できるか』からの内容に沿っていたと思うので、内容の詳細はそれを読んでもらうとして(笑)、まとめるべき点があるとすれば、地球温暖化を食い止めるためには、 「軍備の凍結」×「産業社会での資源浪費の抑圧」×「個人社会の電力の節制」 この3点がそれぞれ解決されなければならない、という点でしょう。どれが抜けてもいけない。この3点が3脚がごとく環境を支えていく支点とならなければならない、と。 そして、田中さんがこと強調していたのは、「産業社会には抑圧を、そして個人社会にはエコロジーで得をするシステムの構築を」ということです。 今日本の業務電力(企業や工場で使われる電力)では、「使えば使うほど電気代が安くなる」システムになっているそうで、そのため企業や工場では「電気を使えば使うほど得になる」という事態になっていて、そのおかげで全国の工場で使われる電力消費だけで、国民すべての家庭の省エネ努力をすべて食いつぶしてしまっているのだそうです。 それを正しい形に是正するには、社員同士からのボトムアップ的な訴えが必要なのだ、と田中さんは説きます。 逆に各家庭では、10年前の家電商品を使っている家庭では、現行の省エネ商品を使うだけで、何の努力も必要とせずに、電力を半分以下に抑えることが可能だ、ということで、例えば自分が誰かに省エネ商品をプレゼントすれば、節約される電気代4ヶ月分程度で、その商品を購入するくらいの元が取れて、「私が省エネ商品を買ってあげるから代金は4ヵ月後に払って」と言って省エネ商品を広げていけば、「誰もが1銭も損をすることなく、CO2排出量だけが半分以下に減っていく」という計算が成り立つ、と言います。 例えば「軍備の凍結」に関しては、「すべての国が、一斉に」軍備を放棄する必要がある、とか、産業社会のシステムを変えるほどのボトムアップの力をどうやって構築するのか、という「実現化」に関する問題はまだまだ残っているものの、地球温暖化を防ぐ具体的な指針を知る、という意味では非常に勉強になりました。 で、今回のディスカッションのテーマは「ap bankから500万融資されたら、何に使ってどうやってその融資額を返済する?」というもので、私は「自給自足の家を建てる」というグループに参加したのですが、いかんせん風呂敷を広げすぎた。ほとんど具体的な話はできませんでした・・・orz。
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2007年10月19日
自然と共に生きる学校
さて、「足枷」の整理が済んだところで、その「足枷」を外すためにはどうすればいいのか、という問題に移る。 まず 〔2〕実際にエコロジカルな生活が実現された場合、自分はどうなっていて、どうやって生きていけばいいのか分からない、という未知への不安 について、今学校で家庭科の授業に重点を置いているところは多くない。いや、まったくない、と言ってしまってもいいのかもしれない。 だから、料理や裁縫がまったくできない、という人も今は相当数に上るはずで(私もそんな一人だ)、それ故に、エコロジカルな生活が実現した場合に、「衣」と「食」が確保できるのか、という不安は常につきまとう。 では、そういったものをどこで学べばいいのか。 そういう学校を作るしかないのである。 偉いもので、世界には既にそのような学校を作ってしまっている人もいる。 サティシュ・クマールさんがイギリスに設立した「スモールスクール」がその代表格で、スモールスクールでは、算数や理科など、普通の学校で習う授業を50%に抑え、残りの50%を、すべて「自然の共生するための勉強」の時間に当てている。 週に1度は自然の中に出て、自然を観察し、自然から学ぶことによって、自然への敬意を育み、料理や裁縫など「自然と共生するために手段」の勉強に重点を置き、環境科学や環境哲学など、環境に関する授業も積極的に取り入れている。 「シューマッハー・カレッジ」という、スモールスクールの大人版、というか大学版も設立されていて、そうやって大人にも子供にも「自然と共に生きる智慧」を提供することにより、大量生産大量消費の資本主義から脱却し、エコロジーをスピリチュアルを基調とした自然主義への社会構造の転換を、クマールさんは目指しているのだという。 日本にはまだ、厳密にスモールスクールのような学校が建てられているわけではないが、似たようなコンセプトの下に活動しているグループがあって、それが、渋谷区を中心に活動している「シブヤ大学」だ。 シブヤ大学は決まった校舎やカリキュラムを持たない代わりに、様々なゲスト講師を招き、実際に講師が活躍している現場に出向き、自然を共生する智慧を学んでいこう、という活動を行っている。 このような形で、世界では、そして日本でも水面下では、エコロジカルな社会を見据えた「ライフスタイルの提供」を行っている組織が実在している。このような活動をもっともっと広げていくことで、「自然と共に生きる」というライフスタイルの具体的イメージが掴めていけば、 「あ、エコロジカルな世界も悪くないな」と思ってくれる人も、どんどん増えていくのではないか、と思う。
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2007年10月18日
「足枷」の整理
とりあえず、環境を守る為には競争型社会(資本主義そのもの、と言ってもいいのかもしれない)からの転換を図らなければならない。搾取と競争がなくなれば、だれもが資源を大切にし、自然との共生もできるはずで、ひいてはそれが世界の平和や心の平穏にも繋がっていくはずなのだ。 で、そこまではいいとして、現状としてそうならない、ということは「足枷」となっている何かがあるはずで、現段階で考えられる「足枷」を列挙してみる。 ① 家庭から社会から北朝鮮や中国に至るまで、周りのあらゆる人間や環境が信じられず、いわば「周りのすべてにナイフを突きつけられた」ような状況で、武器を持ち、競争に勝たなければ、自分が殺されてしまうのではないか、という恐怖を持っている。 ② 地産地消や、自給自足の暮らしがエコロジーだと言われても、大工作業はおろか料理や裁縫もやり方が分からない。 ③ 持っている者が勝ち、持たざる者が負け、という風潮の中で、みんなが持っている物を持たなければ、嘲笑やいじめの対象となり、最悪の場合殺される場合もある。 ④ 自分が生きるだけならまだしも、自給自足の暮らしで金を持たなければ、子供の養育費を払えなかったり、親の介護ができなかったりする。 いくつか挙げてみた。細分化すればもっともっとあるのだろう。 さて、こうして見てみると、「足枷」は大きく2つのものに分かれるのではないか、という仮説が立つ。 〔1〕 「武器を持たなければ北朝鮮に殺される、PSPを持ってないといじめを受けて殺される、正社員にならないと生涯年収150万で社会的に殺される、働かないと両親に殺される」 など、抽象的な恐怖ではなく、現実に「あらゆるものに殺されるかもしれない」という恐怖が、競争や破壊や利己心を煽っているという現状 〔2〕 実際にエコロジカルな生活が実現された場合、自分はどうなっていて、どうやって生きていけばいいのか分からない、という未知への不安 たぶんこの2つの「足枷」がすべての人から外されれば、持続可能な社会の実現度は爆発的に伸びるはずだ。 じゃあどうしよう。この考察はまた次回。
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2007年10月16日
今のほうが絶対に良い時代だ
エコナコトスタッフブログで、ムラオカさんが「たびびとさんの記事を読んで思い出した」と書いていて、私もムラオカさんとたびびとさんの記事を読んで思い出したことがあった(繋がり方が非常にネットっぽい)。 それは「物質的な豊かさと本当の豊かさ」ということについてで、「物質的な豊かさ」と「本当の豊かさ」は、本当に相反するものなのか、という問題だ。 例えば辻信一氏も、スローライフを提唱するに当たって、「物質的な豊かさではなく、本当の豊かさに還ろう」ということを訴えていたが、私はその言い回し自体に非常に強い不快感を感じていた。 「じゃあ物質的な豊かさは偽者の豊かさだ、と断言するのか」と。 例えば洗濯機や掃除機の普及は、一般家庭の衛生状態を画期的に良くした。その結果どうなったかと言うと、確実に子供の病気が減ったのだ。工業化の躍進は、公害などの弊害を生み出しもしたが、その工場で生み出された家電製品の恩恵で、日本での感染症などの症例は、確実に減ってきている。 例えば暖房器具の普及は大量の電力消費の原因ともなっているが、暖房器具がなかった頃はどうしていたかというと、煙立ち上る石油ストーブの周りをみんなで囲み、げほげほと煙に咳き込みながら、ただただじっとうずくまっているしかなかったのだ。 寒さの薄い関東や関西のほうはまだ良かったかもしれないが、寒さの厳しい日本海側や北海道などは、暖を取る為に街の集会所に集まり、子供は大人たちの吸うたばこや酒の匂いにじっと耐え忍びながら、どうすることもできなかったと聞く。 自動車はCO2排出の根源として忌み嫌われているが、おそらく自動車がなかったら、地方過疎で“絶滅”した街は、少なくとも今の4倍程度には膨れ上がっていただろう。 物質的豊かさで、この国は確実に住みやすくなっている。それは“快適”である、ということ以上に、病気になる人が減ったり、過疎地域にもちゃんと食べ物が届けられたり、人の生死を左右するような重い現実にも繋がっている。 「物質的な豊かさを手に入れたことで、本当の豊かさを忘れてしまった」とよく言われる。しかし、誰かが「忘れてしまえ」と言ったわけではない。私たちは、自分たちの意志で、勝手に「物質的な豊かさの恩恵」を忘れていったのだ。 村上龍は、「どんなに少年犯罪が増え、道徳心が地に堕ち、自殺や鬱が後を絶たず、国民全体が生き辛さを感じていたとしても、少なくとも、今のほうが昔よりも絶対にいい時代だ」と説いている。 昔のほうがいい時代だったのだ、と認めてしまうと、先人が今の時代に残してくれた努力はすべて無駄だったのだ、ということになってしまうし、現在の問題を乗り越えて、新しいパラダイムを構築しなければならない事態に、回顧主義はアンフェアだ、ということで、私も基本的に村上龍の意見を支持している。 失ったものが多かったとしても、得られたものはそれ以上に多い、という点で、環境破壊と言うリスクを負ったにしても、昔よりも今のほうが絶対に良い時代だ。 だから、物質的な豊かと環境的な豊かさは、本来折衷すべきもののはずで、物質的な豊かさを捨て、昔風の生活に戻れば、それこそが「本当の豊かさ」なのだ、という言説は、子供の病気をなくし、煙の中じっと耐え続けなければならなかった子供たちを解放し、過疎地域で孤独に苛まれる老人に生活を保障するために奔走してきた、先代の「物質的豊かさを求めた偉人たち」に申し訳ないと思う。 勘違いしないでほしいが、私はムラオカさんやたびびとさんの記事を批判したいわけではない。ただ、環境問題が「現実主義のアンチテーゼ」として、ある視点から目を背けるようなことはあってはならない、と思い、「物質的豊かさと本当の豊かさ」という物言いに、抜けている視点がある、そのことを指摘したいだけだ。
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2007年10月15日
環境型敵役と、真の敵
前回「仙水忍」の記事の書くために、ネットで「仙水忍」を検索してみて、面白い論文を見つけた。 よく漫画やアニメでは「地球にとって人類は悪だから、人類滅亡を計画する」といいう敵役が登場する。仙水忍もそうだし、有名どころでは『風の谷のナウシカ』の「王蟲」もそれに類するかもしれない。 つまり、自らが世界の王として君臨するでもなく、誰か特定の人物に対する憎悪をぶつけるのでもなく、「地球の代弁者」として、地球の自然や生命を護るために、その障害となる人類を抹殺しようとする者である。それを、その論文では「環境型敵役」と呼んでいた。「全体主義的敵役」と呼んでもいいかもしれない。 もちろん彼らは人類抹殺のために破壊の限りをつくし、最終的には主人公に淘汰される運命にある。 しかし重要なのは、過去の漫画やアニメの中で、「環境型敵役に対する抵抗」を描くことがあっても、「環境型敵役の動機に対する検証」は、一度も行われたことがない、ということだ、と、その論文は指摘する。 例えば『幽遊白書』の場合、主人公浦飯幽助に、そんなにこの世が嫌いなら、すべてを壊してしまえばいいじゃないか、と問われ、仙水忍はこう切り返す。 「俺は 花も木も虫も動物も好きなんだよ。嫌いなのは…人間だけだ」 その答えに対して、幽助は、こう返答する。 「オレはてめーが嫌いだ」 「環境型敵役の動機に対する検証」が作品中に行われないのは、そこに「答えがない」からだ。 自然環境を破壊する人類に対する憎悪から、人類抹殺を計画する。では「自然環境を破壊する人類に対して憎悪を向けるのは正しいことなのか」「自然環境を護ろうを言う動機には一理あるのではないか」「本当は彼の言うとおり、憎むべき本当の敵は人類そのものなのではないのか」、問い始めるときりがないのである。 なので「理由はどうあれ人類を混乱させた罪で、敵役を断罪する」ところで、どの作品も終焉する。 しかしこう考えると、今現実に環境破壊に向き合っている人類にも、同じような関係が成り立つのではないか、という気がする。 例えば、周りにゴミの分別を声高に叫んだり、マイ箸マイバッグの持参をことうるさく言う人がいたとする。 その人の言うことが正しいのか、検証しだすと気が重くなる。だからとりあえず、「うるさく言うことで世間に荒波を立てた」という理由で、その人の存在を断罪しようとする。断罪した後で、その人の言ったことを検証することは、決してない。 このような形で、エコロジストと、それに対する資本主義者の抵抗は続いていくような気がする。 環境型敵役が登場する作品において、真の敵とは、その敵役ではなく、敵役の動機を支える、人類のシステムや、人類そのものである。 おそらく私たちにとっての真の敵も、システムや人類、そのものということになるのだろう。 それはエコロジストにとっても。その他の人間にとっても。
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2007年10月14日
黒の章
その昔「幽遊白書」という漫画があって、その中に「仙水忍」というキャラクターがいた。
彼は「霊界探偵」として、妖怪の魔の手から人間を守る任務についていた。しかし、その人間たちが、妖怪を蹂躙している事実を知り、人類に反旗を翻し、人類抹殺を計画する。
その時、彼の精神の拠り所をなっていたのが、「黒の章」と呼ばれるビデオだった。正確な時間は忘れてしまったが、確か10万時間という長い時間、人間の醜さ、愚かさ、残虐さを延々と流し続ける、というビデオだった。
なぜ今そんなことを思い出したのかと言うと、最近、子供が信号での一時停止を促しているにも関わらず、信号無視を断行する親や、子供に注意されているにも関わらず、歩道の真ん中で堂々と世間話をしている大人の姿をよく見かけるようになったからだ。
日本人のモラルが低下している、とよく言われる。だが、子供の頃は、もちろん何が良くて何が悪いのかをまったく知らないわけで、順当に成長すれば、幼児期に読む本や、幼稚園での教育から、まっとうな道徳を最初に学んでいくはずなのだ。
だがそうした「まっとうな道徳」を、両親や、周りの大人たちや、社会全般が蹂躙していく。
現在の日本の子供たちにとって、この社会、そしてすべての大人たち自体が「黒の章」なのではないか、と考えたのだ。
24時間、365日、延々と大人の醜さ、愚かさ、残虐さを見せ続けられる子供たち。そんな子供が成長すれば、仙水忍のように、人類そのものを憎悪し、人類すべてに反旗を翻すか、あるいは、自らが「悪」に染まるか、それ以外に生きる術を見出せなくなってしまったとしても、しょうがないような気がする。
「仙水忍」をネットで検索すると、仙水忍の名言として最初に挙げられている台詞がある。
「世の中に善と悪があると信じていたんだ。戦争も良い国と悪い国が戦っていると思ってた。可愛いだろ?だが、違ってた。オレが護ろうとしたものさえクズだった―」
醜さや、愚かさや、残虐さしか見えない世界で、どうすれば平和を願えるようになるのか。「護ろうとしたものさえクズだった」そうとしか思えない世界で環境を護ろうと思えるのか。
そこには深い闇がある。
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2007年10月12日
何を信じればいいのか、という問題
「ap bank work shop」で知り合った人に、「雑誌オルタナ」の購読を勧められたので、2冊ほど買ってみた。まず実物を見てみないことには、購読するかどうかの決定はし難い。 雑誌自体の感想は全部読んでみてから書くとして、直感的に気になった記事について。 以前私はどこかの記事で、日本が京都議定書におけるCO2削減目標に到達できないのは、企業におけるCO2削減努力が一般家庭におけるCO2排出量に追いついていないからだ、という話をどこかで見たことがあった。 しかし、オルテナ内の記事では、企業や行政がCO2削減の努力を一般家庭にばかり押し付けて、自らが努力をしない姿勢を批判している。 環境問題における1つの問題は、諸問題が複雑に絡み合っているため、識者によって問題に対する見解がまったく異なるという点だ。逆に言うと、1つの問題に対する見解がいつまでも統一化されないのだ。 だから、例えば原発の問題に関しても、原発は「放射能漏れによる人体への影響が懸念される」と同時に、「最もCO2排出量が少なく、大量の電力を供給できる」という2面性を持っているため、「豪快の号外」のように、地球温暖化の抑止を啓発している媒体が、同じ紙面で原発反対を表明するのは理論として矛盾する、という批判を受けたりしてしまう。 問題に対する見解が統一されない、ということは、人々に「何を信じればいいのか分からない」という混乱を生み出す。例えば原発は反対するべきなのか賛成するべきなのか、マイバッグは持つべきなのか持たないべきなのか。 人々に、エコロジーに目を向けさせるためにも、「環境諸問題に対する見解の統一」は急務だと思う。 見解を統一する、ということはすなわちは折衷案を見出す、ということで、要するに「妥協する」ということだ。 そのためのヒントが、同じく『オルテナ』内の田口ランディさんのコラムにあった。 田口さんはコラムの中で、原発について次のように語っている。 「私は便利で快適な生活を望んでいます。だから、原発を容認しています。いつかなくなって欲しいけど、いまある原発のリスクは諦めます。」 原発は危険だ。しかし便利な快適な生活には不可欠なものである。ならば妥協案は一つだ。 「危険だし、なくなって欲しいけど、存在は認めます」 このように、ある視点から見た論と、別の視点から見た論をつき合わせて、一つの「統一見解」を出していく。 そうすれば、それを「信じる」人は信じればいいし、「信じない」人は信じないでも構わない。「何を信じればいいのか分からない」という地点からは、少なくとも人々の心は一つの方向へ向くだろう。
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そういえば、これの知名度はどれほどあるのだろう。

