2007年11月29日
PCを捨てよ、町に出よう
このブログのことを知っていて、且つ実物の私も知っている、という人が何人かいる。 そういう人たちに、必ず「ネットとリアルだと全然性格違うね」と言われる。100%言われる。どうもネットだと、気難しくて議論好きのようなイメージがあるらしい。 実際はどうかと言うと、じつは私は議論が嫌いだ。説得なんてもっと嫌いだ。昔学生だった頃に、「相手を泣かせるくらい本気でぶつかり合わないと、実のある議論にならない」と先輩から言われたことがあったが、相手に悲しい思いをさせてまでして導き出される結論に、何の意味があるのだろう、とずっと思っていた。 ブログでは意見が偏らないように、できるだけ中立、できるだけ公正明大に努めるようにはしているが、じつは私自身「真実」というものにあまり興味がない。 昔「MADARA-天使編」というライトノベルで、痴呆症で18歳以後の記憶を失ってしまったおばあちゃんに、精神科医の先生がリボンを結んであげる、というシーンがあって、その精神科医が、 「大切なのは、彼女が今80歳である、という事実を突きつけることじゃない。18歳に生きている現実を、目一杯生きさせてあげることだ」 と言っていた。真実とは、そのようなものであるべきだ、と私は今でも信じている。 あまり頭の中だけで生きないほうがいいのだ、と思う。見えないものを見ようとして、結局見たくないものまで見てしまう、ということは往々にしてある。 たぶん考えることに没頭しすぎると、誰かを批判したくなってしまったり、気難しいことを言おうとしてしまったりするのだ。壁を作ってまで導き出される真実を、私は望んでいない。 PCを捨てよ、町に出よう。
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2007年11月28日
お詫び
前の記事を削除しました。記事の内容に、読者の気分を害する記述が含まれており、表現上不適切である、と判断いたしました。 コメントをいただいた方々、コメントごとの削除となってしまったこと、深くお詫びを申し上げます。
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2007年11月26日
“金”の力と懐かしい未来
今、「昭和」がブームらしい。確かに映画『Always』の公開を皮切りに、コンビニなどでも、昔懐かしい駄菓子やウルトラマングッズなどが販売されたりしていて、懐かしくも新しい物、として昭和が見直されてきているのかもしれない。 昔を思い出す際によく言われるのが「昔は貧しかったが、心は豊かだった」ということだ。 この間ふと聞いていたラジオでもそんなことを言っていて、実際言葉にしてそれを聞いたとき、ふとした疑問が浮かんだ。 「昔は貧しかったが心は豊かだった」の上の句の下としてやはりよく言われるのが、「今は経済的に豊かになったが、心の大切なものを失ってしまった」という言葉だ。 「心の大切なものを失ってしまった」という言葉がネガティブなニュアンスを含んでいるとして、昔のほうが今よりの良かった、という意味で「昔は貧しかったが心は豊かだった」ということを言っているのであれば、その人は「金を失えば再び心は豊かになる」と思っているのだろうか。 「金を失えば再び心は豊かになる」ということは即ち、それだけ金の力を認めている、ということでもあって、その強大な力に屈服しながら、それを失くしたほうがいい、というのは、どこか無理がないだろうか。言うなれば、表向きには上司に散々ごまをすりながら、裏ではその上司の愚痴ばかり言っている会社員を見るような気分だ。 経済的な発展によって、何か大切なものを置き去りにしてきてしまった、というのは紛れもない真実だろう。だが、その「置き去りにしてしまったもの」を取り戻すために、「もう一度昔に戻ればいい」というのは、どこか無理があって、それが一般の人の「エコロジー」や「スローライフ」や「懐かしい未来」への拒否反応として表れているような気がする。 それに関して思うことができたので、次の記事へ続く。
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2007年11月24日
この国について
あまりいろいろなことを考えないほうがいいのではないか、と思い始めた。 環境問題に取り組む動機は、大切なものを守りたい、とか、大切な人を守りたい、という思いがその発端にある、ということを以前にも書いた。 だが、現在この国では、誰かを愛したことも、誰かから愛されたことも、誰かを信頼したことも、誰かから信頼されたことも、何かも大切に思ったことも、誰かから大切に思われたこともない、という大人や子供が相当数でいて、そういう人たちが、自殺をしたり、いじめをしたり、引きこもりになったり、殺人を犯したり、ニートになったり、ホームレスになったり、プチ家出をしたり、カルトな宗教にはまってしまったり、公共のマナーを守らなかったり、公共の場で大声を張り上げたり、育児を放棄したり、自分の子供を虐待したり、匿名掲示板であらぬ誹謗中傷を書き連ねたり、ストーカーになったり、偽装をしたり、横領をしたり、人を蹴落として高笑いしたりしている。 たぶん環境問題に興味のある人は、平和の問題にも興味のある人が多くて、上記のようなこの国の現状に心を痛めている人も多いと思う。 私はずっと、環境問題を根本的に解決するためには、上記のような状況にいる人たちも巻き込まなければならない、という立場を取っていて、そのような主旨の記事も何度か書いたと思う。 だがその根は非常に深くて、地球環境におけるポジティブフィードバックがあと10年で始まるのだとして、日本人の道徳心や美徳の崩壊のポジティブフィードバックは既に50年以上前から始まっていて、おそらく、もう現段階で、日本人の「心の崩壊」を止める手立てはない。 環境問題に即して言うと、これから将来、地球の環境は緊迫的状況におかれ、環境保護の声は今以上に大きくなることは必然だろうが、たぶんこの国において、すべての人が「環境は大切だ」と思ってくれる日は、一生来ないだろうと私は踏んでいる。 人は生きているだけで、どうしても人の悪意にぶち当たる。その度に、心が痛くなったり、悲しくなったり、時には腹が立ったりするのだが、もうそういう人たちのことは考えないほうがいいのではないか、という気持ちが、私の心を分断している。 放っておいて、自分でできることを自分で勝手にやっていけばいいのではないか。それこそ“ハチドリのひとしずく”的な考え方なのだが、それが本当に正しいことなのかどうか、答えはまだ出ていない。
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2007年11月23日
エコに興味などありませんでしたサーセンww
私がそもそもエコに興味を示すようになったきっかけは、私が坂本龍一さんの大ファンだったからだ。まあ、その他にいろいろときっかけと言うか紆余曲折はあったのだが、その辺りは置いておくとして、坂本さんの活動を追っていくうちに、自然とエコや平和について考えたり、行動したりしていくうちに、いつの間にやら今の自分があったのである。 逆に言えば、おそらくどんなに環境が壊滅的な状況に陥っていようと、坂本さんの存在がなければ私はエコに興味を示すことはなかっただろうと思う。 では当の坂本さんはどうだったのかと言うと、昔はどちらかというと右派というかか、自己中心派であったと自らが揶揄するように、若い頃はむしろエコとは対極の立場にいたのだと言う。 ではなぜ現在のようにエコに興味を持ったのかと言うと、単純に「子供が生まれたから」なのだと言う。地球を守りたいとか、世界を救いたいとかいう大義名分以前に、ただ子供の将来が心配だったのだ、と。 何が言いたいのかと言うと、現在エコロジーに興味があったり、実際に行動を起こしている人だって、端から世界を救いたいという動機からエコに入った人なんて、そうそういるものではないのである。 先日のap bank work shopでの手塚さんの話にもあったとおり、エコでもなんでも、人と繋がり、人を共感させ、人を動かす「人」の魅力は、どれだけ「身もふたもない泥臭さ」をさらけ出せるか、というところにあるのだと思う。 とかくエコは、この星の理想を語ることに密接に絡み合うので、理想論を振りかざしたり、純粋さばかりを追い求めるあまり、現状を批判することになりがちだ。 だが、どんなにエコの理想を追い求め、理想を語ろうとも、その内実は、じつは「おいしいものを食べたい」とか「エコのイベントに行ったら親切にしてもらえた」とか「貧乏で金がないから自給自足がしたかった」とか、そんな身もふたもないような理由に帰結するもので、そんな「身もふたない自分」をきちんと受け止められるかが、「エコロジスト」という“人”の魅力を引き出す鍵となるのではないか、と思うのだ。 正直、元を正せばエコなんかに興味はなかったんです。サーセンwwwwww。
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2007年11月21日
ap bank work shop 第4回
とうとう前半戦も終了、第4回です。 本日の講師は手塚真輝さん。新宿歌舞伎町で2店舗のホストクラブを経営しながら、なんと歌舞伎町のホストのみで結成されたボランティア団体「夜鳥の会」を指揮する、超異色な人です。 元々手塚さん自身はエコそのものにさしたる興味はなかったそうで、なぜゴミ拾いのボランティアを結成することになったのかと言うと、単なる興味本位で新潟中越地震の義援金をホスト仲間同士で寄付しに行ったら、地元の人にものすごく感謝されて、自分たちのような社会のはみ出し者でも、正しいことをすれば人から感謝されるんだ、という感激を元に、この思いを他のホスト仲間にも伝えたい、と思ったのが最初のきっかけだったそうです。 手塚さんが特に強調していたのが「欲望に正直であること」。結局どんなに地球の危機や環境の危機を煽っても、例えば重油の漂う海で仲間がおぼれていたら、重油のことなんて放っておいて仲間を助けに行くだろう、という身もふたもない欲望が人間には必ずあって、そんな自分の欲望に正直になって、自分の気持ちや、仲間を思う気持ちに正直であることが、結果良いことに繋がるようにどんな活動もあるべきだ、と訴えていました。 あくまで自分や仲間などの「人間主体」であって、かつエコは突き詰めれば「自己満足」に過ぎないんだ、という泥臭さを受け止めること、それがエコにとっても大切なんじゃないか。手塚さんは言っていました。 そんなお話を元にディスカッションも行われて、例えば環境問題でNPOを設立する場合や、仲間を募る場合でも、「環境問題に興味がある」という共通項以前に、まず自分が何が好きか、何を守りたいのか、という「ココロの軸」を共有することが重要だ、ということと、そのココロの軸をさらけ出す上での、身もふたもない欲望を曝け出せるか、が大切なんだ、という話をしました。
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2007年11月20日
野山北・六道山公園へ行ってきた
前回の『ap bank work shop』、で、「地みどり」の一例として、東京の里山保存計画が紹介されて、その実践として「都立野山北・六道山公園」という所を紹介されたので、行ってきてみました。 場所は、東京の東のはずれにある私の家から2時間強だったので、都心から考えれば1時間~1時間半で着けるくらいの所だと思います。東京と埼玉のちょうど県境に位置し、公園から直接山を乗り越えてしまえば、狭山湖や多摩湖、『となりのトトロ』の舞台とも言われている狭山丘陵へも徒歩で行けるような立地です。 公園、とは名の付くものの、中はかなり本格的な山。東京都の自然、と言うと、奥多摩や高尾山などを思い浮かべてしまいますが、それらよりもかなり都心に近い場所で、このような本格的な自然が残されている、ということがまず貴重だと思いました。公園名物である田んぼや昔ながらの里山民家もきちんと手入れされており、ボランティアやNGOの人たちの頑張りも見て取れました。 ちなみに、この公園で、生まれて初めて「遭難」を経験しました(鳥獣保護区に入ったのがいけなかった)。「あれ、ここどこ?」「あれ、ここさっきも来たよね?」ということって、本当にあるんですねww。 写真もたくさん撮ってきましたが、とりあえずベストショット5枚だけ、ここでは掲載しておきます。![]()
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2007年11月19日
理想の相手に、いつまでも出会えない理由
もうず~~っと前に、『SMAP×SMAP』の特別企画で、松本人志と仲居正広の対談を1時間放送していたことがあって(ドラマ『伝説の教師』をやっていた頃の話だ)、そこで松本と仲居がそれぞれの恋愛論を語る部分があって、その中で松本が、 「みんな理想の彼女とか理想の結婚相手とか言うけど、理想の女、っていうのは、結局“まだ出会ったことのない女”のことを言うんや」 というようなことを言っていた。 どんなに容姿端麗で、どんなに性格が良くて、どんなに自分のタイプとぴったりだったとしても、出会ってしまった途端それは「現実」になる、と続けていて、その頃はまだ文化人的な側面など微塵もなかった松本の口から出た発言として、妙に感心させられてしまったのを覚えている。 恋愛に限らず、それは人生のどの場面にも言えることで、例えば「仕事・就職」なども、みんなビジネスマンになったらバリバリ働いて、それで且つ自分の趣味もエンジョイして、などの“夢”を見て就職に臨むわけだが、結局仕事を続けられたり、仕事で成功できたりする一番の要素は、仕事を「身もふたもない現実」として受け入れることができるかどうか、にかかっている。 例えば「努力をすれば必ず結果は出る」と言われても、その内実は「毎日3時間残業できるか」と言うことだったりするし、「がむしゃらに仕事をする」と言われても、その内実は外回りで頭を下げる回数を30回から45回に増やす、と言うことだったりする。 そういう現実という名の暗部、というかリスクを日常として受け入れられて、初めて自分がかつて思い描いた、仕事の理想に近づいていくのである。 エコロジーでも同じことが言える。例えば「非電化の生活」と言われると、エコに配慮して、かつ空気も汚さないで、家族の団欒も生まれて、みたいな理想を思い浮かべがちだが、その内実はコンロもレンジもないから朝は毎日5時くらいに起きなければいけないし、子供が寒いだの暑いだのぎゃあぎゃあ文句を垂れるのを毎日なだめないといけないし、CDもテレビもないから、ジャニーズなんて永遠に見ることも聞くこともできない、ということでもある。 「自給自足の生活」と言われても、その内実は毎日誰からも声を掛けてもらえない中4時間も5時間も草刈を続けたり、雨のたびに作物はどうなってるかレインコートを着て見に行かなければならなかったり、夏になると蚊に刺されまくって、毎日痒くて眠いのに眠れない日々が続くことだったりする。 未見のものには“理想”がつきまとい、知見となった途端、“身もふたもない現実”が顔を出す。 だからこそ、エコロジーを“現実”として語れる素養と覚悟が、エコロジストにこそ、問われるのである。
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2007年11月17日
沈黙と就寝
最近、夜10時30分にはもう寝てしまっている。 エコに配慮して、ということもあるのだが、それ以上に10時30分くらいにはもうやるべきことがすべて終わってしまうのだ。 やることがないから、普通の人はテレビを見たりDVDを見たりゲームをしたり、あるいは真面目な人なら勉強をしたりするのかもしれないが、「やることがないからやることを探す」ということ自体、本末転倒なのだ、ということに最近気がついた。 どうも現代人は退屈に耐えられないらしい。特にその傾向は女性よりも男性のほうに強いようだ。 私の会社の人の中にも、「10分間の沈黙」に耐えられない人が結構いる。 職業柄10分沈黙がある、ということは10分お客様が入ってこない、ということなのだが、10分もすると「あ~~暇だ~」「やることね~」「寒い~」などと愚痴を言い始めて、20分もすると「やばいよこれ~お客さん入って来ないじゃん」「なんとかしなきゃ~」「だからこの店ダメなんだよ~」など勝手に自分で自分を追い込み始め、30分経つと「あああああ」「もういいよ~~」などと奇声まで発し始めたりする。これは決して特例ではなく、そういう傾向の人が結構な数でいる。 会社、ということに限定せずとも、現代人からMP3プレイヤーと携帯電話を奪ったら、果たして何分耐えられるだろう、ということには興味がある。 やることがないのなら、静かに佇んでいればいいのである。 特にそれが夜ならば、さっさと寝てしまえばいいのである。 10時30分くらいに寝てしまうと、だいたい朝は5時とか6時くらいに自然と目が覚める。まったく目覚まし時計の要らない生活だ。ブログの記事も、今日のように朝書くこともできてしまう。 何もやることがない時にすべきこと、それは「何もしない」ことなのだ。
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2007年11月15日
CSRのネットワークについて(私信含む)
以前から議題に挙がっていた「CSRのネットワーク」についてですが、CSRを結ぶ中間支援を行っているNPOは既に存在しているそうです。 ●http://www.japanway.or.jp/ 私が提案したCSRの評価についても、既に『読売ウィークリー』などの雑誌が主催して、CSRの評価は行われているようで、『読売ウィークリー』では、年に1度、CSRに関する最高評価を受けた企業に賞を送ったりなどもしているようです。 というわけで、CSRについては、現段階で我々が考えうるすべてのプランに「先客」がいるという状態です。 以上、報告です。
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このブログのことを知っていて、且つ実物の私も知っている、という人が何人かいる。
そういう人たちに、必ず「ネットとリアルだと全然性格違うね」と言われる。100%言われる。どうもネットだと、気難しくて議論好きのようなイメージがあるらしい。
実際はどうかと言うと、じつは私は議論が嫌いだ。説得なんてもっと嫌いだ。昔学生だった頃に、「相手を泣かせるくらい本気でぶつかり合わないと、実のある議論にならない」と先輩から言われたことがあったが、相手に悲しい思いをさせてまでして導き出される結論に、何の意味があるのだろう、とずっと思っていた。
ブログでは意見が偏らないように、できるだけ中立、できるだけ公正明大に努めるようにはしているが、じつは私自身「真実」というものにあまり興味がない。
昔「MADARA-天使編」というライトノベルで、痴呆症で18歳以後の記憶を失ってしまったおばあちゃんに、精神科医の先生がリボンを結んであげる、というシーンがあって、その精神科医が、
「大切なのは、彼女が今80歳である、という事実を突きつけることじゃない。18歳に生きている現実を、目一杯生きさせてあげることだ」
と言っていた。真実とは、そのようなものであるべきだ、と私は今でも信じている。
あまり頭の中だけで生きないほうがいいのだ、と思う。見えないものを見ようとして、結局見たくないものまで見てしまう、ということは往々にしてある。
たぶん考えることに没頭しすぎると、誰かを批判したくなってしまったり、気難しいことを言おうとしてしまったりするのだ。壁を作ってまで導き出される真実を、私は望んでいない。
PCを捨てよ、町に出よう。
