2007年12月30日
152円
事務局から、今年最後のメールマガジンが届いた。 それによると、この「エコナコト」は、今年の6月にスタートしたらしい。このブログの最初の記事の日付が6月18日だったので、エコナコトができた当初から、私はここにいたことになる。 別に古参であることが偉いわけでも何でもないが、半年間1つのテーマで飽きもせずよく書き続けられたものだ、とその点だけは自分で自分を褒めてもいいのではないか、と思う。 「ココロのエコ」というタイトルの「ココロ」とは、当初社会心理学的な意味合いを持っていて、初期のころは、ニュースに掲載された事件に対する雑感や批評などを記事にすることが多かった。 だが、最近は人間が根源的に持つ「愛」や「思いやり」と言ったものに興味が動いていて、そのあたりは記事にする題材や記事の書き方などから、変遷が見て取れる。人間はたった半年でも、考え方や興味が移り変わっていくものなのである。 2007年は、私にとってエコな方向へ人生を転換するターニングポイントともなった年で、おそらく私のこれまでの人生の中で最も、出会いや経験の多い年だった。その出会いや経験から得られた結論が、今頭の中にはあって、2008年はそれをどうアウトプットしていくか、その「行動」の年になりそうな予感がある。 実際「ap bank work shop」から生まれたプロジェクトは、今も水面下で計画が進められていて、そういった「組織」としてのライフワークと、私個人としてのライフワークを、どう形にしていくか、が2008年の大きな課題になるだろう。 ちなみにこの記事が2007年最後の記事で、このブログの152番目の記事となる。私個人では、152円、寄付ができたことになる。額としては非常に少量だが、ここに書かれた情報は、152円以上の価値があると、信じたい。 さて、2007年もここまでだ。今年一年、ありがとうございました。 皆様、 よいお年を。
- posted by よっひ~ |
- 22:24 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2007年12月28日
信じるものしか、信じられない
悲しいかな、人間というものは、世界のすべてを知ることができない。 これだけ情報社会と呼ばれ、世界が密接に関わりあっている、と言われている今日においても、世界は100年程度では決して知り尽くせないほどの広さを誇っている。 地理的なことで言えば、例えば私はペルーの人とか、ノルウェーの人とかが、何を考え、何を思い生きているのかが全然分からない。その人たちの行動が私の理解を超えている、という意味ではなく、生活環境がまったく異なる人たちが、その“まったく違う環境下”だと、どういう思考方式を取るのか、ということが私の想像を越えているのだ。 心理的なことで言えば、例えば私はタバコを吸う人のことが全然分からない。これも理解を超えている、ということではなく、「身体に悪いと情報で知りながら、それをブレイクスルーしてまでタバコをどうしても吸わなければならなかった動機」が、私には想像できないのだ。 結局人間が人生の中で知ることができることや、感じることができることは非常に限られていて、どんなに勉強し、どんなに経験を積もうとも、世界という広大なフィールドで見れば、分かることよりも分からないことのほうがずっと多いのだ。 情報化社会、と現代が呼ばれるようになって、「どれだけ情報を持っているか」「どれだけ知識を得ているか」が、人間の価値を図る基準の1つとなった。 だが、どんなに知ろう知ろうとがむしゃらに頑張っても、知ることができることなど些細なものなのだと気づけば、結局「信じられるものを信じるしかない」という、良い意味での限界を知ることができる。 どんなに知識や情報量で相手より優位に立っていようとも、その優位に立った知識量でさえ、些細なものなのだと気づけば、「私の言っていることは間違っているかもしれない」という謙虚さを持つことができる。 「これまでたくさん勉強してきましたが、それでも世界のすべてを知ることができなかったので、“すべてを知ることができなかった”という穴がある以上、私が考えることや訴えることにも、穴があって当然だと思います。」 私が考えていることも、きっと穴だらけだ。だが、たとえ穴だらけでも、「どこかは埋まっている」そう信じて、自分の信念を築いていくしかないのである。
- posted by よっひ~ |
- 23:23 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年12月28日
「怒り」についていけない
私は現在29歳なのだが、じつは私は高校2年生の時から数えて、怒ったことが1度もない。どうしても、仕事の都合上怒らなければ示しがつかない、という場合のみ、怒るような振りをしたことはあるが、本気になって誰かや何かに対して怒るようなことは、もうなくなってしまった。 子供時代、私はどちらかと言えば短気なほうだった。その短気が災いして、中学校時代、人をいじめる側に回ったり、いじめられる側に回ったりして、ほとほと嫌になってしまったので、高校に入ったとき、もう激情を振りかざすのは止めよう、と決心した。 そんなこともあって、高校時代は一転して目立たない生徒になった。頑張って自分の感情を押し殺しているうちに、怒る、ということがどういうことなのか、よく分からなくなってしまっていた。 人間は基本的に「怒る」ものらしい。怒らないことで、損をしたことも何度もある。 例えば、大学生時代付き合っていた彼女がいて、彼女が他の男とライブに行ったり、向こうが原因で仲がぎくしゃくしたり、向こうのわがままで夜中の2時や3時くらいまで拘束されても、基本的に怒らないで理解しよう、と努めていたら、「たまには怒ってよ!」と、怒られてしまった。 例えば、同じ職場の先輩が、不条理なお客に当たって、そのお客の文句や愚痴をずっと言い続けていて、他人が怒っているのに対してどう対処すればいいのか分からなかったので、穏やかにその話を聞いていたら、「そういう時は一緒になって怒らないと、社会じゃやっていけねーよ!」と怒られてしまった。 怒りや憎しみや不満は、時に現状を打破する原動力ともなるらしい。だが、そういうことにずっとなじめなくて、そんな自分は間違っているのだろうか、とも思ったりしたが、ダライ・ラマ法王が「怒りは物事を解決する根本的な策とはなりえません」ということを言っていて、やっぱりそうだよね、と救われた気分になった。 とにかく、怒りや憎しみにどう対処すればいいのか分からないのである。 エコロジーでも、企業や、社会を変えよう、という野心に溢れた人や集団がある。 基本的に「変えよう」と言うことは、「現状は間違っている」と感じている、ということであり、「なんでああなんだ」「どうしてこうなんだ」という現状への不満や怒りが、「変革」の原動力となっている。 私はどうもこんな人間なので、基本的に野心を持った人間についていけないのだ。 なんでこんなに怒りに溢れているのだろう、そう思うことが時々ある。 「世の中そんなに甘くない」とよく言われるが、個人が世の中に合わせて辛くなるのではなく、世の中が個人に合わせて、世の中全体が甘々になればいいのにな、そんなことを、私は夢見ている。
- posted by よっひ~ |
- 02:03 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2007年12月25日
例えば、コードという問題
今日の新聞に、「心の健康」についての世論調査の結果が掲載されていた。 職場でも家庭でも、今ストレスは増えていて、世論調査では、心の健康に不安を感じる人は3割強、「最近ストレスを感じることがある」と答えた人は、7割近くにも上ったらしい。 この世論調査の総評が載せられていて、そこには 「ストレスが増えた要因の一つは、人間的なつながりが希薄になってきていることである」 という分析がなされていた。例えば、仕事の負担が大きいのならば、相談して分担し合えばストレスは軽減される。行政は、人と人を繋ぐ地域づくりを支援すべきだ、と。 だが、どうなのだろう。 行政や地域の支援によって、人と人とのつながりが、今よりも濃密になったとして、そこで「仕事の悩みを相談したい」という人がいるのだろうか。 それは、そこまで1個人にとって「仕事」が大きなウェイトを占めるものなのだろうか、という問題でもあるし、仕事の愚痴や不平不満程度なら、職場の同僚とも十分話せるだろうに、地域の人と繋がってまで、仕事の話をしたいと思うのだろうか、という問題でもある。 本当はもっと別に話したいことがあって、単純な人と人との繋がりだけでは、本当に話したいことを話すことができないから、という理由であえてつながりを避ける、という側面があるような気がする。 本当は話したくても話せないようなことを、人はたくさん持っていて、そういうことを本音で話せること、そういうことを本当の「つながり」と呼ぶのではないだろうか。 つながることは、簡単ではない。
- posted by よっひ~ |
- 23:19 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2007年12月24日
愛の行方
クリスマスである。さすがに街角にはカップルばっかりだ。 クリスマスが神の祭典や子供たちの祭典から、恋人たちの祭典になったことについて、毎年賛否両論聞かれるが、私自身はクリスマスがそういう日になったことに異論はない。むしろ、母の日や父の日や子供の日があるのだから、「恋人の日」、ということで恋人たちが1年に1度くらいお互いの愛を確かめ合う日があってもいいじゃないか、と思う。 とはいいつつも、私にはあいにくそういう相手がいないので、こうして今日もPCと向き合っているのである。 1つ気がついたのは、「愛」とは、ミルフィーユのように、何層もの層になっている、ということだ。 「愛」という言葉で表現できるものは1つではない。「敬意」だって愛の1種だろうし、「博愛」という広義の愛だって立派な愛の1つだ。 そういった様々な形の愛が、1つの層を形成している、それが1個人の持つ愛の姿だ。 そういった意味で、「愛」について、人が求めているものも1つではない。 例えば、今の恋人を選んだ理由が、「一緒にいて楽しいから」だとして、では「その人を一緒にいて楽しい、ということを自分は望んでいるのか」と言われると、そうでもない、ということもある。 「付き合う」とか「デートする」とか「結婚する」とか、そういういわゆる「恋愛」は、いくつもの層の1断面であって、そのたった1断面に、自分は随分と縛られていたのだな、と最近気づいた。 いわゆる「恋愛」ではない「愛」で結ばれた男女間の結びつきだってある、と気づいて、「結ばれる」ということについてかなり自由になった気がしたが、そういうことを言って通じる人が何人いるのかは分からない。 「そういうことだったのかもしれない」「そういうことじゃなかったんだ」そんなことの繰り返しだ。こと「恋愛」に関しては。
- posted by よっひ~ |
- 22:39 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年12月23日
The Capsule Green Project
うん、横文字にするとカッコイイ(えー)。 家でこつこつと育てている、「コンビニ容器でカプセルプランター」ですが・・・、こんなになりましたーヾ(*´∀`*)ノ これはイケる!と、いうわけでいろいろ実験してみました。 まずこの前作った紙だけプランター。
側面が壁になっているのと、地べたに置いて育てているのでひょひょろですが、頑張って伸びてます。 続いて、どれだけ容器が小さくても育つのか。
ちゃんと育ってます! さらに、土がなくても育つのか。
おおお、育ってるーヾ(*´∀`*)ノ 結論! 種と容器があれば、どこだって緑は育つ!! うむ、これはイケるな( ̄ー ̄)
- posted by よっひ~ |
- 08:50 |
- コメント(5) |
- トラックバック(0)
2007年12月20日
誰のためのエコなのか
印象的な出来事があった。 もう半年以上前になるが、上野の野外音楽堂で「風人(かじぴと)の祭」という、沖縄音楽の祭典があった。 そのころの私は、ボランティアの活動に無性に憧れていて、ボランティアについて検索していたら、ちょうどこのイベントの運営ボランティア募集のページが引っかかったのだが、結局募集期間を過ぎていたので、ボランティアとしては参加せず、1観客として本番のライブを見に行くことにした。 ただの音楽系イベントだと思って行ったのだが、じつは環境系、というか平和集会的なイベントで、このイベントの中心人物である「南ぬ風人ま~ちゃんう~ぽ~」という人が、しきりに世界の平和や環境の保護について訴えていた。 このま~ちゃんう~ぽ~という人が、かなりカリスマ性のある人のようで、涙ながらに自分の故郷がコンクリートに埋められた話をしたり、みんなで踊りながら平和の大切さを叫んだりしていて、イベントが終わった頃には、観客は涙を流したり、肩を寄せ合い、抱き合ったりしながら、「環境は守らなきゃいけないよね」「平和って大事だよね」と、互いに語り合い、会場を後にしていた。 だが、私は見逃さなかった。 ぼろぼろと涙を流し、抱き合いながら、環境保護や平和の大切さを声高に叫びながら会場を出て行く人々の集団を、上野公園に居つくホームレスの集団が、複雑な表情で見つめていたのだ。 会場ではPAが使われていたので、会場内で、環境保護や平和の大切さを鼓舞する声が、彼らにも届いていたことだろう。 涙を流し、抱き合いながら、真剣に環境保護や平和の大切さをかみ締めていた集団は、ついに誰もホームレスのほうへ目をやることはなかった。 環境保護とは、平和とは、一体誰を守ることなのだろう。 今でも私は、エコロジーとは、飢餓や貧困に喘ぐ人たちや、戦争や紛争で故郷を失った難民や、社会的弱者に目を向け、それを救う考え方なのだ、と信じている。 だが、「世界を救おう」と訴える人たちが、目の前の「救われない人々」のことに、素通りし、気づかない。 社会構造を変えることにやっきになって、結果本当に救われるべき人が救われない。それはエコと呼べるのだろうか。その疑問と違和感は、今でも私の中にあって、それが私とエコの「距離感」を決定付けている。
- posted by よっひ~ |
- 21:57 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2007年12月20日
エコと幻想のファシズム
私は、例えば某北の国の総書記の人には、長生きをしてもらいたいと思っている。 何を不謹慎な、と思われるかもしれないが、環境問題に携わる上で、そう考えるのは、ある種の“責務”のようなものだ、と私は捉えている。 エコロジーとは、要するに「地球の環境を守り、環境破壊による地球滅亡を食い止めること」だが、地球の環境を破壊し続けているのは何者でもない人類であり、純粋に「地球を滅亡から守りたい」と考えるのであれば、一番確実で手っ取り早い方法は「人類を滅亡させてしまう」ことなのである。 だが、大多数の人はエコロジーをそのようには捉えていない。大多数の人にとってのエコロジーの到達点とは、「環境を守ることで、人類を滅亡から救うこと」であり、意識的であれ無意識であれ、エコロジーの目的とは、厳密に言えば「地球を守る」ことではなく「人類を守る」ことなのである。 と、するならば、私たちが守るべき「人類」とは、聖人君主から極悪人に至るまで、すべての人々を含むべきなのだ。 なぜならば、エコロジーとは、人類全体を滅亡から救うために、地球全体を守ろうとする動きだからだ。ごく一部の人を守りたい、とするならば、その一部地域だけにシェルターなり、酸素循環システムなどを置いて、そこだけを存続させれればいい話なのだが、そういうことをエコとは呼ばない。地球全体すべての人類を救うために、地球全体すべての環境を守る、そこまでスケールが大きくなって、初めてエコはエコと呼ばれるようになるのである。 人類もいろいろな人がいて、「環境破壊の元凶」とされている人も世界にはまだまだたくさんいる。だが、そういう人たちを「環境破壊の元凶だから死んでも構わない」とする考え方は、「人類を守りたい」ということではなく、「選ばれた人だけを守りたい」ということであり、それはエコロジーではなく、ただの選民思想、ファシズムになってしまう。 世界の環境を守りたい、ということは、世界のすべての人を守りたい、ということであり、環境問題に携わり、エコロジーに寄与したい、というならば、例えばアル・ゴアやダライ・ラマからブッシュ大統領や金総書記に至るまで、すべての人々を「環境を守ることで救いたい」と思う責務と覚悟が必要だ、と思うのだ。
- posted by よっひ~ |
- 21:22 |
- コメント(4) |
- トラックバック(0)
2007年12月19日
ap bank work shop 最終回
3ヶ月に及んだap bank work shopも、とうとう最終回を迎えました。 前に今回のプロジェクトのやり取りのメールを公開しましたが、そのプロジェクトが最終的にどういう形になったのか・・・は、またいずれ公開したいと思いますw。 今回のワークショップに参加して一番感じたのは、「自分で自分を理解し、他人と理解し合うのは簡単なことではないのだな」ということでした。 たぶん環境問題に関わっているすべての人が、各々の「理想の世界像」を持っていて、でも自分の考えている「理想の世界像」が、本当に自分の望んだものと合致しているのかは分からない。それだけ、頭の中でできあがっている理想と、本当に身体で感じる理想は違う場合が多くて、じゃあ「自分の幸福」と「エコロジカルな社会」は、どこまでイコールなのだろう、ということは、じつは改めて推敲していかないと分からない場合が多い。 他人との関係もそうで、例えば「環境問題に関心がある」という結びつきで繋がれた同士でも、「頭の理想」の在り方が違うことで利害関係が一致しないこともあるし、頭の理想を身体の理想が違う、ということで利害関係が一致しなくなることもある。 べつに環境問題に限らずとも、ジグソーパズルで、形は本当に似ているのにどうもぴったりくっつかないピースがある、というのと同じような違和感を、他人に感じることは多くて、それは「環境問題」という名のパズルにおいても例外ではない。 「自分はどこまでエコに拠っているのか」「自分の理想は本当にエコの先にあるのか」「エコで人と繋がれるのか、繋がることを望んでいるのか」。 環境問題に積極的に関わっていきたいと思っている同士が集まったからこそ、映し鏡のような感覚で自分を見つめさせられる機会は多くて、そういった意味で、今回のワークショップの意義を最後にまとめるなら、 「自分とエコとの距離感を改めて見つめられた」 というところに帰結するのではないか、と思います。 ワークショップ自体は今日で終了しましたが、じつはプロジェクト自体はまだ終了したわけではありません。事実、昨年開催されたap bank work shopにて結成されたプロジェクトは、1年たった今でも、すべからく活動を続けているそうです。 おそらく、これからも継続して続けられる活動の「活動報告」として、私のプロジェクトの内容も、このブログで公開されることでしょう。 ともあれ、参加者の皆さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。
- posted by よっひ~ |
- 01:16 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2007年12月18日
佐世保の事件に寄せて
長崎の佐世保で、この国では前代未聞の銃乱射事件が発生した。 おそらくこの事件が“発生した”ということについては、「日本もとうとうここまで来てしまったか」という思いと、「いつかはこうなると思っていた」という思いが交錯して、各々が気持ちの整理をつけていることだろう。 犯人の深層心理や、事件が発生した社会学的な背景については、専門家や全国のブロガーが、それぞれに論考していると思うのだが、私が考えたのは、以前記事にもした、「取り返しがつかなくなる前になんとかすることはできなかったのだろうか」ということだ。 こういう猟奇的な事件が発生すると、毎回「前兆はあったのに、警察は何もしてくれなかった」ということが言われる。 だが私が記憶する限り、「事前に警察が何とかしてくれて、凶行を食い止めることができた」という事例を、いまだかつて見たことがない。 つまり、警察が何とかしてくれたことなんて1度もないのに、事件が起きると決まって警察に責任を追及する、という姿勢を、この国はそれこそ何十年と取り続けているのである。 事件を事前に食い止める、ということを最優先に考えるならば、○○という人が怪しい、と思っている同士を何十人何百人と集めて、その何百人で直接その人の家に乗り込むのが一番手っ取り早い。 だがそれをしないのは、「自分に責任やリスクが及ぶ」のを、無意識であれ意識的であれ、避けているからだ。 こういう事件があるたびに警察の責任を追及する人がいて、法整備を求める人や、社会の責任を言及する人もいる。そういう人たちはつまるところ、「自分たちが積極的に“関わって”、そういう事件をなくしていきたい」と思っているのではなくて、「自分たちが“関わらなくて”済むように、誰かに何とかしてほしい」と、思っているのである。 ・・・と、こういうことを考えていて、ふと、環境問題も同じなのではないか、ということに考えが及んだ。 世論調査では、環境問題に「興味がある」という人は、全国民の90%以上に及んでいるらしい。 それでも、実際にNPOの活動に参加したり、マイ箸マイバッグを普段から持ち歩いたり、積極的に活動をしている人はまだまだ少ない。 つまり、90%以上の「環境問題に興味がある」というのは、「積極的に関わって、環境問題を何とかしたい」ということではなくて、「環境問題に関わらなくて済むように、誰かに何とかしてほしい」という意味合いでの興味の持ち方なのではないか、と思うのだ。 おそらく、これから先も、日本が欧米式のシステムに追従していくのなら、銃乱射事件に留まらず、アメリカやヨーロッパで起きているような問題に、遅かれ早かれ日本も直面する。 問題を事前に防ぐのは、「自分が積極的に関わって、何とかしていきたい」という思いを、どれだけ共有し、共通理解にできるか、にかかっているとは思うが、じゃあどうすればいいのか、それを考えるのは、おそらく何年、何十年という論考が必要となってくるだろう。
- posted by よっひ~ |
- 11:28 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)


