神々の復活

 今、世界中で神々が復活しているらしい。

 中国では、共産党独裁下で姿を消していた古来の民間信仰が復活し、インドでも、経済成長で姿を消していたガンジーの思想が再評価されていると言う。
 中国、インド共に近年目覚しい経済発展を遂げた国だが、経済発展と共に、社会には不安や不満、嫉みや不信が蔓延し、経済を最優先し心を置き去りにしてきたツケが「不安の時代」を呼び、その反動が「信仰の復活」という形で表れてきているのではないか、と専門家は分析する。

 要するに日本とまったく同じ境遇になった、というわけだ。

 日本の近年のスピリチュアルブームも、不安や不信の拠り所を求めた結路である、という分析が既に定説になりつつある。
 つまり、現在世界全体が同時多発的に「不安の時代」に突入している、ということになる。

 
 「心はどこに行ったのか」というテーマでいろいろ調べてみて確信したのは、「エコロジーもスピリチュアルの1種だ」ということだ。
 エコロジーもスピリチュアルも、その性格において一致点が多い。

 ①エコロジーもスピリチュアルも、「自分の今や将来に不安を感じる」という実感に端を発している。
 ②エコロジーもスピリチュアルも、数値化や計量化できない価値観に、重きを置く傾向がある。
 ③エコロジーもスピリチュアルも、NPOや非営利の組織団体が活動の中心となり、組織内部の結束や思想一致に重きが置かれ、外部との接触や交渉に対して消極的な傾向がある。

 
 結局誰もが不安を抱えている。その不安が、自分の将来や人間関係に向く人はスピリチュアルに向かうだろうし、社会や地球の将来へ向く人はエコロジーに向かう。
 根元はどちらも同じなのだ。

 根元が同じだからこそ、エコもスピも、その諸悪の根源は不安や不満、嫉みや不信にあるはずで、根元を断ち切るには、不安や不満、嫉みや不信はどこから生まれ、どう解消させていけばいいのか、解剖し、分析する必要があるのだ。


 心もきっと、そこにあるに違いない。
 何か、見えてきた。

精神世界を旅する

 平日の午前中に記事が書けるのは、平日が休みの仕事をしているからである(←まず言い訳)。

 旅の続き。

 精神世界系のブログを検索してぱらぱらと読んでいる。「愛」とか「調和」とか「高次意識」とか「天使」とか「インナーチャイルド」とか、いろいろなことを精神世界の人たちは言っているが、では自らのレベルを高めて天使に近づいて、宇宙と一体化したところで、さて現実ではどうやって生きているのだろう、ということに興味を持ったからだ。
 私はオーラも天使も見えなければ、特定思想への信仰心を持っているわけでもないのだが、精神世界に自らを委ねることで、現実問題として、人に優しくできたり、善いことができたりするのであれば、それはそれでいいのではないか、と言う意味で、精神世界に対して偏見を持たないようにしている。

 で、実際精神世界にいる人たちは、現実をどう生きているのか。
 
 一つ分かったのは、そういう人たちは、既に現世から隔離されているパターンが多い、ということだ。
 要するに、そういう人たちはヒーラーやスピリチュアルカウンセラーになっていたり、ワークショップを開いてその参加費で飯を食っていたりしていて、普通のサラリーマンで外回りの営業をしながら天使と会話している、とか、町工場で携帯電話の部品を作りながら宇宙と一体化している、というような人はほとんどいないのだ。
 
 つまり、宇宙と一体化して天使に近づいた、としても、それを一般社会で披露するような機会はほとんどない、ということだ。
 精神世界で得られた「愛」や「許し」や「調和」は、やはり精神世界の中で回収されるシステムができあがっている。

 あともう一つ分かったのは、精神世界は「女性の舞台」だ、ということだ。
 もちろん精神世界には、女性もいれば男性もいるのだが、ブログを読む限り、女性のほうが精神世界を深く理解している、という印象が強い。
 女性のブログには「優しさ」とか「ぬくもり」とか「愛」などといったワードが多いのに対して、男性のブログは「虚空」とか「無我」とか「全能」などのワードが多く用いられている。
 男性のブログは、たぶん書いている本人からすれば「難しいことは言っていない」と思っているのだろうが、言い回しや表現が難しいので、頭をがっちがちにしないと読むことができないのだ。
 そういうのは精神世界にはそぐわないような気がする。


 思ったのは、もっと女性に精神世界の愛や調和が浸透し、普通のOLや主婦が、精神世界で得られた愛を生かして、普通の生活でゴミ拾いとか慈善事業ができるようになれば面白いかな、ということと、あと何よりもっと「普通の生活」に降りてきてくれないかな、ということだ。
 仏教やキリスト教でも、普段は普通の人として生活していて、慈善事業をしていて「どうしてそんなに他人のために尽くせるのですか」と問われた時だけ、「いや、ただ単に功徳を積むためです。じつは信仰心持ってまして」と答えるようにしている、という人がけっこういるという。精神世界も、そういう立ち位置に立てれば、世の中の役に立つのではないか、と思う。

 ただ、普通の生活に降りてきても、セミナーや入信への勧誘はやめてね(笑)。

道徳の時間

 さて、心はどこへ行ってしまったのだろう。

 というわけで、まず道徳教育についていろいろと調べてみた。日本人の道徳観が失われたことが、日本人の心が失われてしまった原因なのではないか、と考えたのだ。

 ・・・
 
 何か違う。
 確かに道徳教育は、人としてあるべき心の在り方を説いているように感じるし、礼儀や感謝、節制や畏敬の念など、今の世に失われつつあって、学ぶべきことは多い、ように感じる。

 何か違う、と感じたのは、道徳教育も「教育」である以上“模範解答”があって、その模範解答が何であるのか、誰もが分かっているのではないか、と思ったからだ。

 例えば、「A君はお母さんからりんごをもらいました。しばらくしてA君の弟が帰ってきて、その時にはりんごはもう1個もありませんでした。A君は弟にどうしてあげたらいいですか?」
 という設問があったとする。
 おそらく誰もが異口同音に「弟にりんごを分けてあげるべきだ」と答えるだろう。それは正しい。そして、それはみんな分かっている。
 
 例えば、電車の中でお年寄りを見かけたら席を譲ってあげる、街中にゴミが落ちていたら拾う、迷子になっている子供がいたら声を掛けてあげる・・・、道徳において先生が望む解答はみんな分かっていて、そうすることが正しい、ということもみんな分かっている。

 だが、やらないのだ。

 道徳教育における問題点、というか限界は、
「そんなことは言われなくたって分かっている。でも現実にはやらない」
 というその1点に尽きる。

 だから、道徳とは何なのか、どうすれば道徳心が身につくのか、どうすれば効果的に道徳心を育めるのか、という議論にはあまり意味がない。
 みんな道徳心は何なのか分かっているし、知識としての道徳心は、どんな人にも身に付いている。
 だが、それを実践に移す人がいなくて、道徳教育で議論すべきは、
「どうすれば身につけた道徳心を実践に移すようになるのか」
 これに尽きると思うのだ。


 さて、知識として心の正しさは身についている、と仮定すると、では心はどこで捨てられてしまうのだろうか。
 
 さらに旅は続く。

心ない人々

 心はどこへ行ったのだろう。

 格差社会と言われる。
 金のない人は、その鬱屈感と経済的理由から、環境を破壊する選択を取らざるを得ず、金のある人は、その優越感を全能感から、「環境を破壊する権利を得た」と豪語する。

 心はどこへ行ったのだろう。

 誰もが、こんな世の中は間違っていると言う。
 学のない人は、論拠脆弱なシュプレヒコールをあげ続け、学のある人は持論こそが世界を救う唯一の道なのだと、他者を蹴落とし、罵倒することに精を出す。

 心はどこへ行ったのだろう。

 都会は人の繋がりが希薄で、誰もが孤独なのだと言う。だが田舎は、人のつながりからはみ出た者の受け皿がなく、年間の自殺者が都会を軽く越えるという。


 貧乏な人がいて、金持ちの人がいて、頭がいい人がいて、そうでない人がいて、都会に住む人がいて、田舎に住む人がいて、

 すべからく、すべての人が「心」を失っている。

 「こころない人」と言われる。心は、どこへ行ったのだろう。

自分と向き合う

 自分と向き合わなければならないのだ、と思った。

 人は通常、常に他人や社会と向き合っている。だが他人も社会も“外部”のものだから、向き合う姿勢そのものに“対立”の概念がつきまとう。
 敵の相対はもちろん、味方同士、仲間同士との相対でさえも、「相手より上に立ちたい」「自分の事を良く見てほしい」「人に影響を与えたい」そんな欲望に常に苛まれ、それは結果として、比較や、競争や、主張や、利権などの対立を生んでしまう。
 対立から生まれるものは闘争や暴力に他ならず、その先にあるものは「戦争」だ。

 他人や社会との対立から脱却するためには、向き合うものを、外から内へ、つまり、「他人から自分」へシフトしていかなければならないのだ。

 自分と向き合う、とはどういうことか。
 自問と自制である。

 本当に自分はそれを望んでいるのか、本当に自分はそれを信じているのか、本当に自分はそうしたいのか。

 本当に信じるもののために、本当にやりたいことのために生きる。
 そして、自分が信じているものを他人にも信じさせようと思わず、他人が信じているものを否定することも避ける。
 それこそが、協調と理解を生むのではないか。

 私はすべての人と協調して生きたいと思う。
 ゆえに、他人を見ず、自分と向き合う。

 それは決して、矛盾していない。

心の内にある光

 なんか疲れた。

 なぜこんなにも私は「正しさ」を主張したがるのだろう。「正しさ」に絶対的な正解など、在りはしないのに。

 久しぶりにコンポで音楽を聞いて、歌を歌った。私の家は6畳一間の1Kアパートでありながら、コンポだけは、単品コンポで買い揃えてあって、スピーカーをちょうど頭の位置に置いているから、上から降り注ぐような形で音楽が聴けるようになっている。
 最近、じっくりと音楽を聴いていないな、と思った。

 この星からいろいろなものが失われている。
 だが、自分から失われていくものに、人はえてして気づかないことが多い。

 笑いかけてくれた人、美しい音楽、純粋な愛情、絶望から見出した光。

 あんなにも美しかったもの。あんなにも儚かったもの。
 それらを捨ててまで、何を得ようと思っていたのだろう。

 もう一度、考え直そう。きっと、一度は手に入れた小さな光。
 喜びは、そこにあったのだ。

環境問題をプレゼンする際にやりがちな3つの間違い

 さて、ここでブログを書いている人の中には、日常生活上、あるいは仕事上で友人や同僚や、あるいは赤の他人に環境問題について語り、プレゼンする機会が多い、という方もいらっしゃるかと思います。
 しかしそんな時、「どうも相手に伝わってないな」「どうも相手がのってこないな」と感じるようなことも多いのではないでしょうか。
 今日は、『分裂勘違い君劇場』というブログの、「「この人無能だな」と思われる人の3つの特徴」という記事を元に、環境問題をプレゼンする際にやりがちな3つの間違い、というものを検証してみたいと思います。

 まず、上記の記事で「「この人無能だな」と思われる人の3つの特徴」を、著者はこうまとめています。

(1)発言の濃度が低い

(2)批判するときの対案がしょぼい

(3)自分の得意分野を外へつなげられない

この3つの特徴を環境問題と結びつけるとどうなるでしょう。


(1)発言の濃度が低い
 「意志決定の質は、どれだけ具体的で実効性のあるアクションと成果を生み出したかで評価されます。従って、具体的なアクションや成果につながらない発言は、すべて無駄な発言だとみなされます。」
 と、記事では書かれています。
 言うなれば、「具体的に何をすればいいのか分からない」あるいは「アクションを起こしてどういう成果が出るのか具体的な数値で示せない」発言は、すべて「無能発言」だ、ということになります。
 環境問題で例えるならば、こういうことです。

 A「地球温暖化が危険なんです!今すぐ植林しましょう!!」
 B「えー、植林はいいんだけど、それでどうなるわけ?」
 A「CO2が減るんです!」
 B「・・・具体的に、木1本につきどのくらい?で、今現状CO2がどのくらい出てて、何本植えれば温暖化は解決するわけ?」
 A「え・・・いや、とにかくたくさん植えればその分だけ成果は出るかと・・・」
 B「その「たくさん」ってどれだけなの!ついでにそれだけの木をどこから調達して、その植える土地の確保方法は!資金はいくら必要で、調達はどうやって、きちんとした財源になるまでどのくらい期間が必要で、具体的な成果が出るまでの期間はどのくらいかかって、それを公表するに値する数値成果はどの程度で、その成果に達するまでの期間の概算値は!」
 A「いや・・・あの・・・」
 B「こいつ無能だな」

 まあ、ここまで厳しい人はいないかもしれませんが、最低限プレゼンする側に立つ人間は、「懐疑派が投げかけてくるであろう疑問を10個は想定し、それに具体的な数値で応酬できるだけの準備を勉強」は必要になってくるでしょう。


(2)批判するときの対案がしょぼい
 「批判をするときは、その批判のオチが、具体的で効果的な問題解決方法であることを前提として、ディシジョンメーカーは話を聞きます。にもかかわらず、そのオチが、「そんなん、十年前から考えとったわボケ!」というようなものだったりすると、その発言を聞いた時間は無駄だったことになり、それは、ディシジョンメーカーの貴重な時間を奪い、また一歩彼を株主総会リンチへと追い詰めることになります。」

 これは、「批判するだけしておいてその対案を考えていない」あるいは「その対案が限りなく現実性に乏しい」ということです。
 環境問題で言うと、こういうことです。

 A「六ヶ所の核燃料再処理施設は、人間に取っても自然にとっても最低な施設なんです!」
 B「なるほど。最低なのは分かったけど、でももう建物立っちゃったんでしょ?そこにかかった費用はどうするの?」
 A「そんなもん、施設で働いてる人間が払えばいいんです!」
 B「・・・いや、そんな個人でどうこうなる金額じゃないでしょ。ついでに、そこで働いてる人の雇用問題は?」
 A「青森県の役所で雇ってもらえばいいじゃないですか」
 B「いや、工業施設である以上民間委託とかもあるだろうし、そんなに人を抱えられるほど、役所だって大きくないでしょうに。
  施設を止めたい、って言う以上、そこにかかったお金、そこで働く人、施設が建てられた意義、国際世論への対応、それらに対して、ちゃんと施設がなくなった後も損失が出ないようなセーフティネットがいるでしょう?そのセーフティネットはどこにあって、誰が負担して、誰が責任を総括して、いつまでに移行作業を終わらせるつもりなの?」
 A「そんな代わりとか何とか言ってるうちに施設は動きだしちゃうんです!とにかく止める、止める、止めるのが先です!!!」
 B「・・・こいつ無能だな」

 「さらに最悪なのが、そのディシジョンメーカーが、すでにその問題を十分に考え抜いていたり、すでに、かなり対策を打ったあとに、それよりも、ずっと浅いレベルで、その問題点を指摘することです。」
 批判をする以上は、誰よりもその問題を認知し、勉強し、誰よりも深い解決案を提示できる能力が求められるわけです。


(3)自分の得意分野を外へつなげられない
 「単に、自分の得意なことをしゃべればいいと言う物ではないのです。それを、相手の課題を解決するための問題解決構造を形成するための重大なパーツとして働くように、自分のコアバリューをカスタマイズして、組み込まなければ、「つかえねー専門バカ」というラベルを貼られ、以降、ミーティングには呼ばれなくなります。」
 
 これは要するに、「自分の言うことを相手の立場へ置き換えて話をすることができない」あるいは「自分の発言が、相手の立場からするとどう捉えられるのか、という想像力が持てない」ということです。
 環境問題で言うと、こういうことです。

 A「わが社も来るエコロジー社会へ向けて、CSRを重視しなければなりません!」
 B「ほうほう。それで具体的にどうするのかね?」
 A「わが社の売り上げの10%を、植林団体へ寄付すべきです!」
 B「はあ?せっかく社員が汗水流して手に入れた利益を、だだ流ししろと?」
 A「そうは言ってません!ただ地球がダメになれば、会社の利益がどうこうなんて言ってられなくなるでしょう!」
 B「いや、地球の命より社員の生活のほうが大事だろう・・・」
 A「じゃあなんですか!社長は会社の売り上げがあれば、地球はどうなってもいい、って言うんですか!」
 B「いや、そうとは言っとらん。だが、せっかく社員の一人ひとりが汗水働いて出してくれた利益を、無条件で差し渡すなど、賛成できん。」
 A「だって、地球が破滅したら生活も何もないでしょう!人間の命より、地球の命は重いんです!!」
 B「・・・ダメだ、全然話が噛み合わん。こいつは無能だ」

 人間は誰しも、関係のネットワークの中にいます。その中で、1個人の中でエコがどれだけ思い比重を示しているかは人それぞれで、エコの比重が軽いからと言って、まったくエコについて考えてすらいない、という人は少ないと思います。
 そんな人の心の内を考慮せず、ひたすらエコ最優先で話を進めよう、とするのは、ある意味で人権侵害にもつながりかねません。
 特に「じゃあ地球がどうなってもいいって言うんですか!?」という台詞は、殺し文句です。いついかなる状況でも、この台詞だけは絶対に言ってはいけません。



 いかがでしょうか。意外と、やりがちな「罠」に心当たりがあるのではないでしょうか。
 とりあえず、元ネタの記事も、非常に参考になる記述が多く、勉強になります。これからも、自分は「プレゼンター」なんだ、と言う気持ちで、常に企画職の重役会議に出るような志と使命感を持って、エコを広げていきたいものです。
 

功徳を積んでみた

 今日、午後3時半ごろ。

 外回りの仕事で大通りをぶらぶらと歩いていると、道端に倒れているおじいちゃんを発見した。脱げた靴を一生懸命履き直そうとしていたが、体勢がおぼつかず、ふらふらするばかり。
 ここは一つ善行をしてみようと、おじいちゃんに「大丈夫ですか?」と声を掛けて、おじいちゃんが立ち上がるのを支えてあげた。
 腰でも痛めて立ち上がれなくなったのかと思ったが、幸いただ酔っ払っていただけだった。
 ただその後、おじいちゃんが感激してなかなか手を離してくれない。酔っ払って、感情が高ぶっていたこともあるのだろうが、ひたすら「あんたみたいな若者はいない!あんたみたいな若者はいない!」と連呼し、ついには感極まって泣き出してしまった。

 孤独なお年寄りが多いと聞く。
 本当は誰もが、心の支えを求めている。マザー・テレサは「この世界で最も酷い病気は“誰からも必要とされていない”と思い込んでしまうこと」と語っていたが、それは道端に倒れたお年寄りから、巨万の富を手にした大富豪まで、変わらない。

 あいにく私も仕事があったので、早々にその場を立ち去らなければいけなかった。本当はもっとおじいちゃんの話相手をしてあげたかったのだが。
 最後はお互い手を振って別れた。
 「社長、ありがとう!社長!!」と、おじいちゃんはずっと叫び続けていたが、

 あいにく私は社長ではなかったのである。

「居酒屋で飲み会」を廃止する

 先日のマイ箸の話とも繋がるのだが、例えば吉野家や松屋などは、テーブルの所に割り箸をストックしているボックスがあって、そこから客は割り箸を取り出して使う、というシステムになっている。
 ボックスから箸を取り出すか、という判断は客側に委ねられるので、マイ箸を持っていれば、割り箸に手をつけずに済む。
 だが、店の中には、初めからテーブル、というか自分の席に割り箸が備え付けられていて、有無を言わさず割り箸を使わざるを得ない、というところもある。

 その筆頭が居酒屋だ。

 居酒屋では、初めから自分の席に割り箸が置いてあってしまうので、たぶんこの割り箸を使わなくても、皿や残り物の食事と一緒に、箸もその都度捨てられてしまうのだろうなぁ、と思い、仕方なく割り箸を手に取ってしまう。
 それで、「お前マイ箸持ってるんじゃないのかよ!」と怒られることもしばしばだ。

 しかも居酒屋は深夜遅くまで営業しているのでエネルギーも大量に消費するし、宴会ではたいがい無計画に食事を注文してしまい、食べ物が残ってしまう。

 エコロジーの観点からすると、百害あって一利なしだ。

 さらにもう一つ言うと、「ビール」。あれが深刻な環境破壊に繋がっている、という話もある。
 世界の大豆供給を確保するためにブラジルでは、大規模な森林伐採が行われ、「大豆街道」という、森林伐採の大街道ができあがってしまった、という話が、つい最近まで読売新聞で連載されていたが、大豆と同じように、ビールの原料である“大麦”の需要も今世界中で高まっていて、大豆と同等の森林伐採が、ビールの供給を確保するために行われているらしいのだ。

 
 まさに居酒屋は、「環境破壊の総合商社」なのである。

 先日の記事では、箸による森林伐採を止めるためには、箸の消費量でなく外食の回数を減らさなければならない、と書いたが、どうだろう、その実践として、まず「居酒屋で飲み会を開く」ことを、エコに関心のある人は止めてみてはどうだろうか。
 この国の居酒屋が10%減るだけでも、かなりのエコロジーになりそうな気がするのだが、どうだろう。

エコと政治とSTOP!の叫び

 そういえば、川田龍平氏は、今どこで何をしているのだろう?

 『ecogroove』さんが、六ヶ所村の核燃料再処理施設と、高尾山にトンネルを作る、という問題を立て続けに記事にしていた。
 その土地の生態系が破壊されるとか、人間にも危険が及ぶとか、どちらもその問題点に共通項があって、もちろん、常識的に考えれば、どちらも「止めなければならない」問題なのである。
 だがそういった、「問題のある案件」が事業としてまかり通ってしまうのにも理由があって、ecogrooveさんが指摘している通り、どちらも、その根本的な問題は、「政・官・業の癒着が国民の生活や自然環境を脅かしている」という点にあり、つまり元を辿れば、どちらも「政治を変えなければならない」という問題になってくるのである。

 だが、政治を変えるためには、考えなければならないことが2つある。

 まず1つは「今の政治に“問題がある”ということが、どれだけ共通理解になっているか」ということだ。
 例えば、六ヶ所高尾山双方の問題として、「その土地の動物たちの生命が脅かされる」ということがある。
 「ここに再処理施設を建てると(トンネルを掘ってしまうと)、動物たちの命が危険に晒されるの。それって、かわいそうでしょ?」という問いに、
 「そうだね、かわいそうだね!」と思う人もいれば「いや、別に」と思う人もいて、「かわいそう」と思ってくれる側の人がどのくらいいるのだろう、という問題だ。
 政治を“変えなければならない”ということは、今の政治に“問題がある”という前提を、共通理解として持っておく必要があって、
 「いや、動物ごとき人間様のために絶滅したって別にいーじゃん」という意見が大多数を占めるならば、今の政治には“まったく問題はない”ということになってしまうのである。

 もう1つの問題は、「自分たちの意見を届けてくれる人が政治家になったとして、それで本当に政治は変わるのか」ということだ。
 ecogrooveさんの記事では、来る八王子市長選挙に環境保護派として立候補する、橋本さんという人を紹介していたが、小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」と公言して首相になって、結局ぶっ壊せなかったように、環境保護派の人が選挙に当選して、結局どれほど声が飛ぶものなのだろう、という疑問がある。
 そこで、川田龍平氏に話が戻る。川田龍平氏は、様々な環境保護系NGO・NPOの支援を受け、まさに「エコな人」を代表して議員となった。
 川田氏の当選、そして議員活動は、政治にエコがどれだけ食い込むか、といういい判例となるはずなのだが、議員当選後、川田氏が具体的に何をして、何が変わったのか、というニュースを聞いたことがない。

 
 誤解しないでほしいのだが、私は切実に六ヶ所村再処理施設も高尾山のトンネル工事も中止してほしいと願っているし、この記事を書くことで、そう願い行動する他の人のやる気を削ごうと思っているのでもない。
 ただ、「何が問題で、何を変えなければならなくて、そのためには何をすればいいのか、その具体的なビジョンが見えていないと、ただ止めよう、と叫んで止まるような問題ではないだろう」ということを確認しておきたいだけだ。