2008年02月28日
おすすめのお店
わが街千住には「椿屋2」という、アースデイマネーにも加入している、有名な有機野菜の販売店があって、その2階は有機野菜専門の定食屋さんになっているのだが、家からちょっと遠いのと、定食屋さんの営業時間が11:00~14:00(3時間だけ!)ということで、ちょっと時間を逃すとすぐ閉店しまうのがあって、なかなか利用することができないでいた。 そんな中、家から歩いて5分くらいのところに、今度は「CAFE&BAR葉っぱ」という野菜をたっぷり使ったレストラン&バーができたので、最近はそちらをちょこちょこを利用させていただいている。 お兄さんとお姉さんが2人で切り盛りしている小さなお店で、こういう小さくて静かな佇まいは私好みだ。使っている野菜が有機野菜かどうかは分からないのだが、ごはんはしっかり五穀米だし、普段意識して肉は食べないようにしている人間にとってはありがたい存在だ。 しかし、気になっていることが一つある。 いつ見てもお客さんがいないww。もし千住に来る用事があったら、行ってみて下さい。
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2008年02月28日
もう少し、9条の話
9条改変に関して、改変推進派と反対派で、諸々認識のズレはあると思うのだが、まず確認しておかなければならないのは、9条が改変されて、日本が戦争のできる国になったとしても、 「一般市民が戦地に赴くようなことはない」ということと、 「日本が戦場になるようなことはない」ということだ。 先の世界大戦で、国民総動員法が施行されて、一般国民が武器を持たなければならなかったのは、先の大戦は「侵略戦争」だったからだ。 侵略戦争である以上、1つの場所を侵略したら次の戦地へ、と次々と戦地を拡大させなければならない。戦地が拡大される、ということはそれだけの人員と資源が要求されるわけで、軍隊の人員だけではどうしても賄いきれなくなったので、仕方なしに、国民が武器を持たなければならなかったのだ。 そして、侵略戦争であったからこそ、相手国から反撃を受けるのは必至で、それゆえに日本は戦場にならざるを得なかった。 現在の世界情勢から考えて、9条が改変されたにせよ、日本が1国の独断で侵略戦争を始めるとは思えない。 おそらく、日本が戦地に赴くにしろ、それは紛争介入という形を取るはずで、しかも日本の独立軍ではなく、アメリカ軍との共同戦線や、多国籍軍の一員、という立場になるはずだから、戦地に実際に赴くのは自衛隊の隊員だけで十分だ。 そして、もし日本が戦争行為に加入するとしても、日本軍が自律的に戦場介入するのではなく、アメリカ軍や多国籍軍の“要請を受けて”という形になるだろうから、万一戦争行為によって社会的非難を浴びたとしても、“要請を受けたので”という言い訳を立てれば、非難の矛先は要請先(アメリカや他国)に向けられて、日本の国土が戦場になる危険性はいくらでも回避できる。 そしてさらに、前に記事で指摘したように、日本を爆撃して得られるメリットは、あまりにも少ない。 つまり、9条が改変されたとしても、一般市民に被害が及ぶことは絶対になく、一般市民の目からすれば、言うなれば「戦略ゲーム」のような感覚で、戦争を俯瞰することができるのだ。 9条改変に反対する人の中には、日本が「戦争のできる国になってしまったら、一般市民が人を殺したり殺されたり、あるいは日本が戦場になってしまう」という前提・認識を持っている人が少なからずいるようだが、その認識は根本的な部分で間違っている。 まとめるとこういうことだ。 「貴方様には一切リスクはありません。貴方様に代わって自衛隊が戦地に赴き、貴方様は“選挙権”というレバーを握り、「シムシティー」感覚でリアルな戦争をコントロールできます。 日本が戦場になるんじゃないか、って?いえいえ、日本はアメリカの保護下にありますので、全部アメリカのせいにしてしまえば、敵はみんなアメリカに行ってしまいます。 しかも今なら「国民の誇り」と「経済発展」というメリットまで付いてきます! どうです、リスクは一切なし!メリットいっぱい!9条改変して、日本を戦争のできる国にしてみませんか?」 という誘い文句に、「え、ノーリスクでいいなら、戦争賛成してみようかなぁ」と思うか、「いや、自分にリスクになくても、誰かが殺しあったり破壊しあったりする戦争には反対です!」と思うか、という問題で、要するに9条の改変では、 「甘い言葉と“自分には被害は及ばない”という誘い文句に、それでも見えない人の悲しみを思い「NO!!」を言えるほどの、確固たる正義感を持っている人が、この国にどれほどいるのか」 ということが問われているのだ。 つまり、9条の守るためにやらなければならないことは、集会でもデモ行進でもなく、「自分さえ良ければそれでいいんですか」という問いに、「いいえ」と堂々と答えられる「正義感の醸成」なのだ。 そういう意味では、9条の問題だって、突き詰めれば個人の意識の問題に帰結する。 とにかく、個人のココロから、すべては出発するのだ。
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2008年02月27日
戦争は「無意味」
『おおきな原野のミズナラの木』さんの「article 9」という記事を読んで、戦争について少し考えてみた。 ミズナラさんの指摘の通り、憲法を改定し、この国を「戦争のできる国」にしたい、という思惑を持っている人が、特に政治の分野で少なからずいるようだ。 なぜこの国を「戦争のできる国」にしたいのか。細分化すれば理由は様々に挙げられるだろうが、大まかに捉えれば、理由はたった3つで、 1、戦争による特需で経済発展が期待できるから 2、他国の情勢に積極的に介入できる大義名分を持つことで、国際競争に自主的に参加できるから 3、武力によって守られている、という安心感を与えることで、国民の政治に対する信用を調整できるから この3点に集約される。 だが、例えばアメリカを見てみよう。 先のアメリカ-イラク戦争は、イラクが大量破壊兵器を所有している、という大義があったが、じつはそれは表向きの理由で、じつはアメリカによるイラクの石油資源の奪取が目的だったのでは、という説が流れている。 実際にはどうだったのか、今でも確証は取れずじまいだが、例えばその仮説が正しかったとしよう。 では実際にアメリカはイラクの石油資源を獲得することができたのだろうか。 そんなニュースは聞いたことがない。 アメリカはイラクとの戦争で、国際情勢における何らかの利権や競争力を獲得できただろうか。いや、むしろ逆にアメリカはこの戦争で、国際情勢から非難を受けたのではなかったか。 戦争による特需で景気が良くなるのなら、果たしてアメリカは戦争を期に失業率や犯罪率が低下しただろうか。いや、そんなニュースも聞いたことがない。 戦争によって国民が政治に信頼を寄せるようになるならば、戦時中の狂乱的興奮が落ち着いた戦後、ブッシュ政権の支持率は引き続き上昇し続けただろうか。いや、むしろブッシュ政権の支持率は、戦後下降し続けたはずだ。 つまり、この国の一部の政治家が期待する、「戦争ができる国」にすることによる利権は、実際にはまったく手に入らないということが、つい5年ほど前に勃発した戦争によって、既に証明されてしまっているのである。 イデオロギーやヒューマニズムによる、戦争の可否は別として、戦争という行為は、対費用効果や合理性という観点において、まったくの「無意味」なのである。 イラク戦争よりさらに前、北朝鮮によるミサイル爆撃の恐怖が煽られ、日本もミサイル防衛の軍備をすべきだ、という議論があがったことがあった。 その時に、作家の村上龍は、「北朝鮮のミサイル爆撃は合理性の点においてありえない」と断じたことがあった。 なぜならば、日本には、爆撃して得られる「資源」がないからである。 例えば、日本に大量の石油や石炭や金が眠っている、というのであれば、国土の焼け野原にした後、ゆっくりと資源を採掘することができるだろう。 だが、日本の経済発展を支えた資源は「技術力という名の“人材”」と、「膨大な情報」であり、爆撃という打撃的な手段を取れば、人材を殺害し、情報データやツールは破壊され、北朝鮮にとってメリットのある資源を獲得することが逆に困難となることは、少し考えれば誰だって分かる。 だからそれが可能かどうかという観点は別にして、非効率でかつ合理的でない、という理由で、北朝鮮がミサイルを飛ばすことは絶対にない、というのが村上の理論だ。 戦争を否定する上で、最も論理的で合理的な解釈だと、私は思う。 「いい悪い」ということだけで戦争や改憲を判断すると、どうしても論拠薄弱となってしまったり、感情論になってしまったりして、戦争を止める手立てとしては弱くなってしまう。 憲法9条を守る、ということで言えば、戦争がいかに“合理性”という観点において「無意味」なのか、ということを、論理的に考察する姿勢も、大切なのではないだろうか。
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2008年02月26日
モンスターがあらわれた!・・・いつ?
俗に「モンスターペアレンツ」とか「モンスタークライアント」と呼ばれる人たちがいる。学校や企業やお店に不当な要求をし、それが受け入れられないとあたかもモンスターのように暴れだす人たちのことだ。 街中のモンスターが話題になり始めたのは、2年ぐらい前からだと思う。まず、商店にはびこる不当なクレーマーの存在が話題になり、そのような存在は商店のみならず、学校や役所や、あらゆる社会にはびこっている、という流れから、1種の社会問題として注目されるようになった。 街中のモンスターについて考える時、着目すべき点が2点ある。 まずひとつは、モンスターは「もう既にいい大人だ」ということだ。モンスターペアレンツは、小学校中学校の子を持つ親と言うことで考えると、だいたい20代後半から40歳くらいまで、モンスタークライアントは、雑誌などで調査された統計や、私自身の経験からすると、40代後半から60歳くらいまで、だと思う。 そしてもう一つは、つい5年前までは、そのようなモンスターは存在していなかった、ということだ。不当なクレーマーの存在がまったくなかったわけではないが、いたとしても極々少数だったし、そういう人は反社会的存在として、地域や共同体すべての“敵”だった。 つまり、街中のモンスターに関しては、「5年前時点で既に分別をわきまえているはずだった大人が、5年の歳月の中でモンスターに変貌した」と言えるのだ。 例えばこれが子供だったら話は分かる。子供は元々自我が確立しているわけではないし、知識や経験も乏しいので、メディアや周りから悪い情報や環境を与えられれば、モンスターに変貌することも十分ありえる。 だが、現在街中にはびこっているモンスターは、既に分別も知識も経験も十分に蓄えた大人だったはずの人たちなのだ。 どうしてモンスターは出現してしまったのだろう。 考えられることは2つで、ひとつは、その5年の間で大人の常識やこれまでの人生を覆されるような大きな“事件”が発生した可能性。もうひとつは、「大人になれば分別がわきまえられるようになるはずだ」と言う前提は、5年よりさらに前に既に崩壊していて、その後遺症がモンスターという形で表出した可能性。 どうだろう。今時点で、私は後者のほうが可能性は高いと思う。 なぜこんなことを考えるのかと言うと、「大人になれば分別がわきまえられるようになるはずだ」という前提が、もう何年・何十年も前に崩壊していた、となると、例えば「ゴミのポイ捨ては街の景観を損なうから良くない」とか「緑を勝手に荒らすのは良くない」とか「環境を破壊するような物の無駄遣いは良くない」などと言った、「大人になれば常識として分かること」が分かっていない大人が、既に何十年も前に決して少なくない量で存在していたことになる。 そんな大人が、今度は子供に影響を与えていく。 それがスパイラルのように繰り返された時、例えば10年後、「環境を守ることは大切だよね」という言葉に頷いてくれる子供は、果たして何人“生き残っている”だろう。 環境教育ということで考えると、どうしても子供のほうに目が向いてしまうが、まず「環境って大切だよね」という基本中の基本を教えていかなければならないのは、じつは大人のほうなのかもしれない。
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2008年02月25日
ファーブルはなぜ下を向いたのか
『昆虫記』で有名なジャン・アンリ・ファーブルは、元々は博物学者であり、教鞭をとりながら、植物の研究に従事していた。 それが、幼少期の大自然での生活や、人生の中の様々な紆余曲折をきっかけにして、36年にもおよぶ壮大な昆虫研究へのめりこんでいくわけだが、じつはファーブルが昆虫に着目した“直接のきっかけ”に関して、今でも分からない部分が多い。 そのことについて谷丹三という小説家が坂口安吾へ当てた手紙があって、そこで谷は、ファーブルを昆虫研究に駆り立てたきっかけは、昆虫に「思想」を見たのではないか、と語っている。 要するに、前回の記事で、加島祥造さんが森の姿に人間を照らし合わせたように、ファーブルは昆虫の姿に人間を照らし合わせていたのではないか、と言うのだ。 人間でないものに人間の姿を顧みる、という自省心を持つのは簡単なことではない。 例えば、映画「アース」に出てくる動物たち。求愛のためにダンスの舞台を掃除する鳥や、子供の歩みが遅いのを心配して後ろを振り返る象など、彼らの姿はなるほど人間的だ。 だが、そんな動物の姿が「人間的だ」ということに気づくためには、途方もない歳月を賭した観察と、そこに人間性を見る想像力、そして何より動物の一挙手一投足と人間の姿を対比させ、分析できる知性が必要だ。 動物や昆虫の姿に限らずとも、この世に常識を凌駕した「神秘的なもの」は数多く存在する。 そして人間は、その神秘が、常識を凌駕し人間の手に負えないものである、と気づくからこそ、そこに畏敬の念を表し、それを守ろうとする。 だが、神秘的なものが「神秘的」である、と認識するためには、人間の常識や、何が人間の手に負え、手に余るものなのか、を理解するための、「知性」という土台が必要なのだ、ということに気づいている人は意外と少ない。 例えば、種から植物が生まれ、花が咲く。これは大自然の驚異の一つだが、ただ植物の姿を見せ「神秘的だね」と言っても、子供は理解できない。 その場合には、「なぜこんな小さな種から植物は生まれ、なぜこんなにも美しい花を咲かせるのか」それは大いなる謎なのだ、ということをまず子供に認識させ、植物のような成長は人間に可能なのか、ということを共に話し合い、植物はこんなに小さい種から成長するのに、翻って人間はどうだろう、ということを考えさせなければならない。 それが、神秘を「神秘である」と認識させる、ということなのだ。 大自然はその存在だけで、大いなる驚異だ。 だがその驚異に気づくことができるのは、それを「体験」した人ではない。 きちんと勉強をして、自然の姿に人間の限界を見て、絶望できた人だけなのだ。
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2008年02月24日
ちなみに
あまり意味はないのだが、ブログのタイトルを変えてみた。 「Eco-philosophy」とは、このブログでも何度も言及している「環境哲学」のことで、「環境問題」とは、つまるところ、社会問題が映し出す心の闇や「人生とは何か」「命とは何か」を問う哲学に他ならない、という観点から、 「ココロを問うことがエコロジーだ」 という話1本に絞ろう、という決意を、タイトルに表したかったのだ。 要するに、あんまり変わっていないのだがwww。 「philosophy」を「philosophia」と変えたのは、坂本龍一が「Difference」を「Differencia」と言ったり、坂本真綾が「Hemisphere」を「ヘミソフィア」と言ったりしたのを真似て、なんとなく「哲学する“場”」という意味合いを持たせたかった・・・というのは後付けで、カッコつけたかっただけの造語であるw。
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2008年02月24日
緑に学ぶ共生と調和の智慧
このブログでも何度か紹介した『求めない』で有名な加島祥造さんの、『タオにつながる』という本があって、そこで「木々が持つ智慧」について語られている。 木は林となり森となり、何本何十本何百本と並びたてられても、お互いがぶつかり合うことがない。 外から見える「樹」の部分でさえそうであると言うのに、その木々を支える土の下には、木の大きさと同じほどの長さの根があり、しかもそれは木のように直立ではなく縦横無尽に広がっている。 そんな根でさえ、お互いにぶつかり、領土を奪い合うことなく共存している。 お互いが争わず、奪い合わず、それで且つ世界にはあれだけの広大な森林があり、すべての木が素晴らしい成長を遂げている。 さらに言えば、森の木はほとんどが同じくらいの高さに成長する。突出して成長するような木もなければ、落ちこぼれて成長の遅い木などというものも存在しない。 争わず、奪い合わず、突出することもなければ落ちこぼれることもなく、そしてしかも、木々は人間の尺度ではとうてい計りきれないほどの長い年月を生きる。 どこで木々は争わないことを学んだのか。なぜ木々はすべからく等しく、且つあんなに立派に成長を遂げられるのか。 その理由については、現在の科学を以ってしても解明されていない。 森は、人間の存在などでは到底追いつけないほどの、深い共生と調和の智慧を身につけているのだ。 だいたいこんな内容の話で、私は非常に深い感銘を受けた。 緑によって教えられることは多い。なのに、人間はその木を切り倒し、この星を破滅に追い込もうとすらしている。 その破滅を防ぐのが、当面の私たちの課題なわけだが、ここで学ぶべきことがあるとすれば、「共生と調和とは、単純に共に生きる、ということだけではなく、争わず、奪い合わないために、ゴールを別々に設定することである」ということだ。 なぜ人は争い、奪い合うのか。それは、「一つのものをみんなで寄ってたかって得ようとするから」である。 木々だって、例えば、頂上に穴が開いたドームの中で、その穴を目指して伸びようと思えば、いつかはお互いに穴を奪い合うことになる。 木々が争わず、奪い合わないのは、この広い星の中で、自分は自分なりのゴールを目指して伸びているからだ。 それと同じように、人間だって、例えば「IT業界で天下を取る」という目標を持った人がいて、「じゃあ私も、じゃあオレも」とみんなが同じ目標を目指すから争いや奪い合いが起こる。 誰かが「IT業界で天下を取る」と言ったなら、「じゃあ私は違うところを目指すから、IT業界で天下を取るのはあなたに任せるわ」と言う話にするべきなのだ。 その昔、某専門学校のCMで「じゃあ僕は公務員になる、私はウェブデザイナー、僕は消防士になる」というのがあったが、あんな風に「初めからみんなが違う目標を目指して、各々が各々の道で切磋琢磨する」というのが、本来の共生と調和のあり方だと思うのだ。 そのためには、例えば今この国に1億3000万の人がいるのだとしたら、1億3000通りの仕事や、ライフスタイルを考える必要があって、そんなに多様なライフスタイルなんて提示できないよ、とメディアが言うのであれば、もうそこでメディアの役目は終わった、と考えていいのだ。 そうして、自分の生き方を、すべての人がノーヒントで考えなければならなくなった時、その時に本当に争いや奪い合いは終わるのだ、と思う。
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2008年02月23日
ECOであってエコでなく??
めでたく緑のgoo化した我がパソコンだが、さて皆さん、緑のgooで 「ECO」 と検索したことがあるだろうか。 問題:緑のgooで「ECO」と検索して、TOPに出てくるものは何でしょう? えー、エコって言うくらいだから「不都合な真実」とか? いやいや。 あー、アルファベットだから「eco検定」か! いやいや。 えー、じゃあ最近で一番ホットな話題、ということで「エコプロダクツ」とか? いやいや。 正解はこれである。
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2008年02月22日
すべては過去の投影
ちなみに言うと、私はどスケベである。 何が「ちなみに」なんだ、という話だが、真実なのだからしょうがない。 どうも私は常人以上に「触れたい」願望が強いらしい。普段は理性でその願望を抑えているわけだが(抑えられなかったら犯罪だ)、そういう潜在意識下の抑圧は、体調不良など、別の形で表に出てしまうこともあるらしい。 ヒーラーの友人に言わせると、そのような「触れたい」願望は、要するに「愛されたい」願望で、そういう潜在意識下の欲求は、親から適切な愛情を受けていなかったり、子供時代の心の傷を受けたりしたことなどが多分に影響していると言う。 確かに心当たりがある。 私の場合、親から適切な愛情を受けていなかったというか、厳密に言えば、親から適切な愛情を受けていなかった“時期がある”。 細かいことは長くなるのでここでは言わないが、そういった子供時代の影響が、大人になった後も潜在的な欲求として残ってしまうことは一般的にもよくあって、だから今現在の大人のネガティブな側面は、すべからく子供時代の心の傷や愛情欠如などの過去の投影である、と言える。 大人になってもゴミのポイ捨てを止めないのも子供時代の投影だろうし、40代50代になっても日焼けサロンに通ったり髪を金髪に染め上げたりするのも子供時代の投影だろうし、家庭内暴力を振るったり育児放棄をしたりするのも子供時代の投影だろうし、もちろんどスケベなのも子供時代の投影だ。 ではすべての大人の姿は子供時代の投影なのだから、大人を変えることは不可能なのか、と言われるとそんなことはない。大人はそれまでの人生で得た知識や経験を生かし、理性によって自らのネガティブな部分を乗り越えることができる。 重要なことは、今の自分には「ネガティブな側面」がある、と認識することと、その根は子供時代にある以上、子供時代の心の傷に向かい合う覚悟が必要だ、ということだ。 私も、過去にしこりがあって、いつかはその過去と向き合わねばならないだろう、とその友人は言う。 本当は・・・
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2008年02月21日
エコとスピの哲学
今、読売新聞で「スピリチュアルの探求者」という連載が組まれている。 ヒーラーさんではなく、大学教授や翻訳家など、スピリチュアルとは別の本業を持った人が、人生や仕事にスピリチュアルをどう生かしているのか、というテーマでインタビューを行ったもので、正直そこに出てくる人は知らない人ばかりだが、新聞でもいよいよスピリチュアルが普通の連載として通用するようになったと思うと、興味深い。 以前にも何度も言及したが、私がスピリチュアルに興味を持っているのは、オーラや妖精が見えるからではなく、エコ・フィロソフィ、環境哲学の観点において、環境を大切にする生き方の哲学とスピリチュアルの思想に共通点を見出しているからだ。 今回の新聞の連載は、インタビュー記事だけあって、インタビューの最後に各々の教訓、というか締めがあるのだが、例えば1回目の菅さんという翻訳家の人は、 「環境破壊の深刻化と、今の人間が抱く虚無感は呼応している」 と言及し、物質主義が自然を痛めつけていることは、深層心理のレベルで見れば人間の心を傷つけることでもあるとして、人間の心の変容をもたらすものとして、スピリチュアルの重要性を訴えている。 2回目の樫尾さんという大学教授は、スピリチュアルが現在に必要な根拠として、 「人は一人で生きるのではなく、何らかの力に生かされていると気づけば、謙虚に利他的に生きられるはず」 と説いている。 こう見ると、やはりスピリチュアルと環境哲学は密接に結びついている、というより、ほぼ同一のものだ、と言ってもいいだろう。 環境を破壊しているのは人の心の虚無感だ、とすれば、環境破壊を根本的に止めるにはまず人の心を変えていかなければならない。 そして人の心を変えるためにまず必要な認識は、人以外の物質や性質、そのすべてに生命が宿っている、と理解することだ。 そんな心の変容の可能性をスピリチュアルが持っているのだとすれば、スピリチュアルは環境破壊を根本から防止する唯一の手立てである、とも言えるのだ。 例えば、日本には「八百万の神」と言って、すべての物質には等しく神が宿る、という教えが今でも心の奥底に浸透している。 「八百万の神」という考え方だって、スピリチュアルの1種で、すべての植物や自然に神が宿っているのだから、植物や自然を敬わなければならない、とすべての人が気づけば、環境破壊は止まるだろう。 このように、エコとスピは、常に共にあるのだ。
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