2008年03月31日
“温暖化”で正しいのか
寒い。 桜が咲いたと思ったら、急に寒気が戻ってきて、最近は雨が降り続いている。昨日は桜の見ごろだったろうに、職場近くの花見会場も閑散としていて、桜もこの雨で振り落とされてしまいそうだ。 寒い、で思い出したのだが、地球温暖化論議の中で、「初めから“気候変動・気候異常”と呼べばこんなことにならなかったのに」という話を聞いた。 例えば、現在の環境破壊の弊害として、北極の氷が溶けてしまうとか、砂漠化が進行してしまうとか、海面が上昇してしまうとか、様々なことが挙げられるが、「地球温暖化」と名付けられてしまうと、そのすべてを「地球の温度が上昇したから」という論点で説明しなければならない。 だから、例えば現在逆に寒冷化が進んでいる地域があったり、サイクロンが大量発生したり、エルニーショ現象が発生したりといったことを“温暖化”で説明するのには無理が出てくる、と言うのである。 温暖化論議の中では、今でも現在の地球温暖化と人為的なCO2の排出に関連性はあるのか、そもそも本当にCO2の排出が地球温暖化の原因なのか、議論はまとまらないままだが、それより以前に、“温かい温かくない”で環境を語ろうとすると、どうしても説明が付かない気象現象があって、まず私たちは、「環境を破壊すると、温暖化するしないに関わらず、気候に何かしらの異常が発生する」という考え方に、シフトする必要があるのではないだろうか。 例えば今日のような、“春の寒日”があると、「ほらやっぱり温暖化なんて嘘じゃん」と言う人が必ず現れる。これを「温暖化」に凝り固まってしまうと、どうしても説明が付かなくなる。 「いや、こんな暖かくなったり寒くなったりが繰り返されるの自体が“異常”なんだって」 そう考える必要が、あるのだ。
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2008年03月29日
アンチエイジングと「退行願望」
例えば、子供に対して「男は泣いてはいけない」という教えがある。教え、というよりも規範、と呼ぶのが正しいかもしれない。毅然たる男が涙を見せるのは恥ずべき行為だ、と言うのである。男らしくない、と。 だが、そういった子供に対する感情の抑圧は、一種の精神的な暴力に他ならない、と、世界で最も影響力を持つ禅僧、と呼ばれるティク・ナット・ハンは説いている。身体的な暴力だけでなく、そういった精神的な抑圧や暴力が、怒りや恐怖、そして平和の崩壊へ繋がっているのだ、と。 ノーベル平和賞受賞者であるベティ・ウィリアム女史も同じことを言っていて、泣きたい時には泣く、「泣く」という感情を受け止めてあげることこそが、調和と平和の基礎なのだ、と説いている。 だが、厳密にはそれは間違っている。 男らしさ、女らしさ、<らしさ>とは、抑圧ではなく「社会性」である。 人は誰もが相互依存の関係のネットワークの中にいる。そして人は誰もが、いつか個人の世界から社会へと飛び出していかなければならない。その時、関係という名の“縄”は、否応なしに個人を縛り付ける。 すべてが個人の自由、というわけにはいかない。その時に、自らを律し、社会の中で自らを自制する修練、それこそが<らしさ>である。 現代は「すべてが個人の自由・すべてが平等」という歪んだ認識が横行し、大人らしさや、親らしさ・年長者らしさ、<らしさ>が破壊されたことによって、社会性が崩壊し、それが人間関係の希薄化に繋がっているのだ、と早稲田大学の加藤諦三教授は説いている。 この二つの話を比して思い出したのは「アンチエイジング」という考え方だ。 「アンチエイジング」とは、本来身体的な老化に拮抗することだが、現代では大人らしさや親らしさ、年長者らしさといった、精神的な成熟を拒絶し、拮抗する「精神的アンチエイジング」が蔓延しているのではないか、と思うのだ。 大人になりたくない、成熟したくない、そういった思いは、「退行願望」とも呼び換えられるものかもしれない。 大人が本来の役割を果たしていない、親が本来の役割を果たしていない、教師が本来の役割を果たしていない、そんな印象を持たざるを得ない事件や場面が多い。それは、「未成熟」と言うよりも、身体的な老いを拒否するのと同じように、精神的な成熟を“自発的に拒絶している”と、言えはしないだろうか。 個人的な憶測の域を出ないが、深夜のコンビニで地べたに座り込んで、地面にゴミを撒き散らしながら談笑する10代の姿を見て「いいなぁ。自分もあんなふうになりたいな」と、素で憧れる40代50代がいるような気がする。 本来規範を示さねばならぬ大人が、未成熟な若者の横暴振りを見て、その「未成熟さ」に憧れる。 そんな逆転、いや「退行現象」が、社会の様々な規範を壊している、ような気がしてならない。
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2008年03月28日
倍音浴に行ってきた
「倍音浴」というイベント、というかコンサートに行ってきた。 「クリスタルボウル」という楽器がある。天然の水晶を粉上に粉砕して、お椀状に焼き上げたもので、純粋な水晶製の物から、パワーストーンを混ぜたものまで、様々な種類が存在する。 クリスタルボウルは、マレットで叩いたり擦ったりして音を出すのだが、基音に合わせて3種から4種の倍音を同時に奏でることができ、様々の音階のボウルを同時に鳴らすことで、重厚な音の波を発生させることができる。 倍音同士が共鳴して奏でられた音は、人間の可聴範囲をはるかに超え、人間の細胞レベルにまで影響を与えることができるため、主にヒーリングやリラクゼーションの媒介として用いられる。 今回参加したイベントは、そのクリスタルボウルを計30個用意し、由緒正しきお寺の中で、倍音の波に浸ろう、というものだ。 コンダクターは、『クリスタルボウル・ヒーリング』という、日本における唯一のクリスタルボウルの本の訳者であり、日本のクリスタルボウルの第一人者と呼ばれる牧野持侑さん。 会場は西馬込にある「實相寺」という所。![]()
なかなか夜のお寺も、趣があって良いものだ。 で、これがクリスタルボウル。
「30個」と軽く書いたが、じつはこれだけの数のクリスタルボウルが揃うことは、日本ではそうそうないことだ。 見ての通り、畳の部屋なので、演奏は部屋を暗くして、横になって聴く。ヒーリングとリラクゼーションのための楽器なので、演奏中に寝てしまうのが、一番の理想なのだ。 で、実際どんな音がするのかというと、こんな音がする。 クリスタルボウルの音 実際には、このサンプルの20倍の音量と20倍の音圧を持った音が鳴る。 単体で1個鳴らしただけでも、この世のものとは思えないほどの音の波が巻き起こり、それが複数個にまたがると、世界全体が音で振動しているかのような錯覚を起こすほどの、壮絶な波動の波に包まれる。 それで本当に寝られるの?と思うだろうが、本当に寝られる。世界全体が振動に包まれるので、音がうるさいと感じないし、可聴範囲を超えた倍音、というのはすなわち「α波」のことなので、実際音を聴いていると、ぼ~っとしてしまうのだ。 これは実際に生で聴いてもらわないと分からないだろう。 クリスタルボウル、という楽器自体知名度がさほどないものだが、その威力は相当なものだ。 もし聴く機会があれば、ぜひ生で、その演奏を聴いてみてください。
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2008年03月27日
「静寂」は絶滅危惧種
最近になって、「環境問題の根本は人々の怒りや憎しみの心にあって、その怒りや憎しみの根本となっているのは『静けさの喪失』である」という説を打ちたて、このブログでもしきりに言うようになった。 こう思うようになったのは、これまでこのブログを通じて様々な環境問題について、調べたり分析したり考証を重ねた結実でもあり、またその過程で出会った“老子”の思想の影響でもあったりする。 しかしどうやら、環境問題において“静寂”を切り口に考えているのは、どうも私だけではないらしい。 今日の新聞に「高尾山にトンネルを作る」案件への、生態系や自然への影響を懸念した訴訟のニュースが載っていたのだが、そこで、高尾山にトンネルが掘られることによって失われるものとして、生態系や自然だけでなく、「静寂や音風景」もあるとして、トンネル工事差し止めの訴状に「静寂と、自然音による“厳粛な雰囲気”の破壊」も含まれている、という事実を知った。 つまり、何も音がしない、という「無」の状態の価値を高尾山は保有し、それを破壊することは強奪に等しい、と原告団は訴えたのである。 「無音である」「静寂である」ということに価値を見出せるかどうか。 それは自然を愛し、自然を守るということにおいて非常に重要な観点だと思う。 これからはもっと、「無音・静寂」の価値を見直すべきだと思う。 自然と共生する、ということは、静寂と共生する、ということに等しい。エコロジーに配慮したライフスタイルとは、それ即ち静寂に配慮したライフスタイルであり、これからの人々のライフスタイルには、静寂がもっと必要とされるべきだと思うし、そのことを司法や社会はどう判断するのか、という判例を下す意味でも、高尾山の訴状は興味深い。 とにかく、今や動物や植物と同じように、「静寂」も絶滅の危機に瀕している。早急に、保護しなくてはならない。
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2008年03月26日
しょっく食にしてやんよ
ムラオカさんのブログで指摘されていた通り、「食」が最近にわかにブームになっているようだ。 というわけで、ブームに乗って、「食と環境」に関する論点を、ココロのエコ的に整理してみよう。 食と環境に関する論点は、大きく3つに分類される。 ①農薬の使用や、遺伝子組み換え種の栽培による、土壌や生物への影響の懸念 最近話題になった「毒ギョーザ」の問題や、有機野菜が見直されているのはこの問題だ。 農薬や遺伝子組み換え種の大量使用は、土壌を傷つけその土壌の生態系を破壊してしまうだけでなく、その地で農作を行う農家や、その食品を口にした人体への悪影響も大きな問題となっている。 ただし、自然影響を受けず、「飢饉」という状況を世界から根絶し、途上国の人々にも等しく食を分け与えられるようになった、という意味では、農薬や遺伝子組み換え品種の恩恵は世界的に認められ、農薬や遺伝子組み換え種の“まったくない世界”を実現するのは人類の自殺行為に等しい、という点で、有機栽培と農薬栽培との折り合いを、どこで付けるか、その「着地点」が、この問題における一番の争点となると言える。 ②食料流通ルートにおける搾取的労働や、多国籍流通によるCO2排出の問題 これは食料そのものの問題というよりは、食料がどのような環境によって作られ、どのようなルートを辿って届けられるのか、という問題で、「フェアトレード」や「児童労働」、または大企業による農地の独占や森林伐採による農地拡大の問題なども、この問題に含まれる。 この論点は、食の問題であると同時に「経済」の問題である色合いが強く、食料の流通ルートの情報公開や是正、「南北問題」などの経済システムそのものの見直しや、大量生産大量消費という人々のライフスタイルを変革することが、問題の解決策とされる。 言うなれば、この論点は「“食”を通じた経済システムの問題」と捉えられ、ゆえに食の問題の中でも最も規模が大きく、議論の幅が広く深いものだ、と言える。 ③乱食、暴食による食料の浪費、および「命をいただく」感謝の気持ちの喪失 この『エコナコト』ブログで話題になっていることが多いのがこの問題だ。 経済的に豊かになったおかげで、この国では、「お金さえあればとりあえず食には困らない」という恩恵に、すべての人々が授かれるようになった。 ただ、以前にもこのブログでも指摘したが、「お金さえあれば条件問わず恩恵に授かれる」ということは、理性や自制の精神を持たなくてもよい、という権利をお金によって獲得した、ということにもなり、そのせいで、「毎日食べることができる」という、世界的に見れば“極めて貴重”な事実にありがたさを感じることがなくなり、乱食・暴食が横行し、国内自給率が38%であるにも関わらず、メタボリックシンドロームが社会的問題となったり、大量の食料廃棄が引き起こされたりといった「矛盾」が発生している。 「食と環境」と一言に言っても、その論点は多岐にわたり、どの論点に一番興味があり、問題性を感じているかは、人それぞれのはずだ。 ただ確かに言えるのは、「食」を通じて見えてくる社会的な問題が確実にあって、様々な人が多角的に焦点を当てることで、浮かび上がってくる事実がたくさんある。 一辺倒な物の見方ではなく、様々な人が、各々の論点から「食」を考えることが、まずは問題解決の糸口になるのではないだろうか。
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2008年03月25日
京都の約束 その後
その後シリーズ第3弾。 昨年夏に行われた参議院選挙に先立って、「貴方が当選した暁には、ぜひ国会で温暖化対策の制度を作ってほしい」と候補者に直接掛け合って“お願い”しよう、という、「京都の約束プロジェクト」というものが発足された。 “お願い”するためには、それだけの署名が必要だ、ということで、mixiを中心としたネット上で、お願いのための署名を募っていて、私も当時署名をさせてもらった。 あれから、「京都の約束」はどうなったのだろう。 公式HPによると、参院選当日までに集まった署名は15049通、それからも署名は続き、最終的には、15288通の署名が集められたらしい。 で、プロジェクト自身は7月29日の、参院選当日をもって“終結”している。 “終結”はいいのだが、結局このプロジェクトが、その後の国会における温暖化論議において、どれだけの効力を発揮したのかがまったく分からない。 公式ブログにおいて、 「最終結果の発表や来年の通常国会へ向けた盛り上げとして、9~10月にシンポジウムみたいなイベントもやりたいと考えています。その際は、またご案内しますので、是非お越しください。」 と書かれてはいるものの、そのようなイベントが行われたという報告も案内もないし、実際に“お願い”した政治家が、その後どのようなアクションを起こしたのか、という定点観測も後日談もない。 ようするに、「やりっぱなし」だ。まったくアフターフォローがない。 カーボンオフセット年賀もそうだったが、なぜ温暖化に関する運動やアクションには、こうも「継続」と「アフターフォロー」を考慮に入れていないものが多いのだろう。 公式ブログのプロジェクト終結の記事に、このようなくだりがある。 「私たちは、気候変動を乗り越えて、持続可能な社会を創るための新しいチャレンジをしました。 社会に与えた影響は大きくはないかもしれませんが、その経験は若い世代にとって非常に大きいものだったと確信しています。」 ただ文化祭の思い出作りでもしたかったのか。 なんでこうも憤っているのかと言うと、カーボンオフセット年賀も、京都の約束プロジェクトも、私自身がその企画主旨に賛同して、実際に参加した運動だからだ。 思いつきで行動されて、「ああ楽しかったね~」で終わられては、私個人にとっても「散々いろんなことをやらせておいて結局意味なしかよ」と思ってしまうし、世間の目から見ても、「ああ、どうせ環境運動ってお祭り気分でぱっと咲かすだけで、何の効果も出せずに終わるんでしょ」と思われてしまうし、何よりもこれでは温暖化が防げないのである。 とりあえず私は個人的な興味から、過去に参加した環境運動の「その後」について、これからも調査していきたいと思っているが、皆さんも、環境運動に限らず、過去に自分が参加した社会運動が、今現在どうなっているか、調べてみてもいいのではないだろうか。
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2008年03月24日
「通り一遍のどこかで聞いたような論調」を繰り返さないために
茨城県土浦市で、無職の青年による無差別の殺傷事件が発生した。 この手の猟奇的事件におけるメディアの対応は“酒鬼薔薇聖斗”の事件以降一向に変わる気配が無いので、今回の事件も、通り一遍のどこかで聞いたような論調が繰り返された後、皆の心から忘れ去られていくのだろう、という一抹の諦念が拭えないが、それでも言及しておかなければならないことはある。 私は1紙からの報道しか見ていないが、速報であるにもかかわらず「ゲーム好きでキレやすい」という犯人像に言及している記事があった。 いわゆる「ゲーム脳」と猟奇的事件の犯人を結びつける論調はずっと前からあって、それこそ「通り一遍のどこかで聞いたような論調」に過ぎないわけだが、なぜ同じような論調が繰り返されなければならないのかというと、私たち、情報の“受け手”側が、メディアから提供される情報を咀嚼して、そこから導き出される真実に辿り着こうという意志を、いつまでたっても見せないからだ。 例えばゲーム脳で言えば、「犯人はゲームにのめり込んでいた」という「情報」があった場合、2つのことを考えなければいけなくて、まず1つは、「親がゲームを買い与え、それにのめり込ませるほどに犯人を放置していた」ということと、もう1つは「親や地域や社会の影響力が、形で言えばたかだか数センチ四方しかないゲームの影響力に負けていた」という事実だ。 ということは、「犯人はゲームにのめり込んでいた」という情報があった場合、それは「親や地域のネグレスト(育児放棄)の問題を言及すべきだ」と私たちは“受け手の義務”として捉えなければならなくて、じつはメディア側も、世論への反発を避けるために、あえて直接的な表現を避けているだけで、「本当はゲームのことなんて言いたいわけじゃないのに、なんで読者は気づいてくれないんだ」と思っている可能性だってある、ということだ。 言うなれば、「情報」というものは、「まだ炙り出しをする前の白紙の紙」と同じようなもので、炙り出して画を浮かび上がらせてこそ初めて表現として意味を成すのに、白紙状態の紙を見て、「白いな」だの「いやじつは白くない」などと論評しても、意味はないのだ。 環境問題でも同じことが言えて、例えばアル・ゴアが「地球温暖化が危険です」と言ったとする。その時私たちは、“受け手の義務”として、「温暖化が危険だ」という「情報」から真実を炙り出さなければならないのだ。例えばそれは、「アメリカの帝国主義をこれ以上のさばらせてはいけません」というメッセージかもしれないし、「アマゾン流域の原住民が家をなくして困っているので見に行ってみてください」ということかもしれない。 ただ一つだけ確かなのは、「地球温暖化は危険です」と言われて、「そうだね危険だよね」とか「いやいや危険じゃないよ」と言っているだけでは、良い悪いは別にして真実に辿り着けない、ということだ。 それは田中優の「メガバンクに金を預けると戦争に利用されます」という「情報」でもそうだし、IPCCの「地球上における二酸化炭素濃度が、ここ数年で急激に上り続けています」という「情報」でも同じだ。 とにかくどんな情報でも、ある情報がメッセージとして提示された場合、本当に知るべきことは、そのメッセージとは別に存在する、ということを知っておかなければならないし、私たちは情報の“受け手”として、そのような情報の捉え方をする癖をつけるべきだ。 まだこれからになるだろうが、土浦の事件においても、犯人の性癖とか、家族像とか、学校でいじめられていたとか、アニメの虐殺シーンに興味があったとか、うんざりするような「通り一遍のどこかで聞いたような論調」が、また繰り返されることになるだろう。 環境問題においては、「通り一遍のどこかで聞いたような論調」を繰り返すようなことは、あってはならないと思う。
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2008年03月23日
ある休日
私は普段酒を飲まない。体質的にアルコールを受け付けないからなのだが、例外的に、体調の悪い時や、風邪を引いたときなどに酒を飲むことがある。要するに薬代わりだ。 一人で酒を飲むなら、ちょっと敷居が高いくらいの、静かなBarに限る。席数がそんなに多くないほうがいい。酒や料理が運ばれてくる間、本でも読みながら待っていられるのが理想だ。 酒や料理は、その店に置いてある“一番珍しそうな”メニューを頼む。これは、仕事の飲み会などでも私自身がルールとして決めていることで、やっぱりその店を訪れる縁があった以上、そこでしか頼めないものを頼むのが一つの礼儀だろう、と思っている。 ちなみに今日は、山葡萄蜜のソーダ割と、「ニュートン」というベルギー産の青りんごのビールをいただいた。 高級なお酒のいいところは、飲み口の軽さと柔らかさに限る。お店のオーナーが「ニュートン」の解説をしてくれて、そもそもベルギーは、ベルギーワッフルやベルギーチョコの産地であるくらいで、全体的に“甘党”の国らしい。そういうところから、ビールも甘く作る、という発想が生まれて、そこから産み出されたのが青りんごのビール、とのこと。 確かにその飲み口は、どちらかというとビールというよりもカクテルに近く、そのくせアルコールはしっかり入っているから、しっかり酔える。 一人で飲む以上、「慌てない」というのが、所作だ。しっかり酔った後は、しばらく目をつぶって、身体の中に染み込む酔いに浸ってみるのがいい。そういった時に、社交的な人はオーナーとの会話を楽しむ、というのも乙なものだろう。 会計を済ませる時には、カウンターで「ごちそうさま」、店を出る時に「ありがとうございました」、2回会釈するのが通だ。 静かに酒を飲む、という習慣が特にこの国では乏しい。だが、「酔う」という気分に浸るなら、やっぱり1人、あるいは気の置けない人と2人3人で飲むのが一番だ。 とてもいい気分だ。今日は、おやすみなさい。
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