マイバッグは「顔」である

 意外と、顔が割れている。

 だいたい毎日の買い物は、同じ店で済ませる。毎日同じ店に通う、とは言え、どのお店だって、1日に何十人何百人と客を相手にしているのだから、どの客がどういう人で、なんてことを覚えきれるわけがない、と思うのだが、私の場合、なぜかどこのお店でも顔を覚えられてしまう。
 別に特徴的な顔をしている、とかそういうことではない。たぶん、365日例外なく、「袋要りません」と断っているのが、私くらいしかいないのだ。

 なので、毎朝通勤時に使うコンビニでは、何も言わなくても勝手にテープだけ貼って商品を出してくれるようになったし、夜手秤りで惣菜を買うお弁当屋さん(地元のオリジン弁当が閉店してしまい、今は違う弁当屋さんを利用している)では、「“今日も”袋はいりませんか?」と言われるようにまでなってしまった。この間は、入社したてのアルバイトの子が、惣菜を袋に詰めようとして、隣の社員の女性の人に、「あ、袋入れなくていいから。ですよね~♪」と言われてしまった。
 顔を覚えられる、というのは、何も言わなくても済むので楽だが、ちょっと恥ずかしい。

 すべての人がマイバッグを持つのが当然のこととなり、皆が「袋要りません」と言うようになれば、私の存在も霞むのだろうが、通う店通う店で顔を覚えられる、ということは、まだまだ「袋要りません」と断っている人は、少数派だ、ということだ。
 早くすべての人がマイバッグを持つ日が来ることを願うが、顔を覚えられるのがきっかけで、お店の女の子をと仲良くできるのが割と楽しいので、私はもう少し、この“特権”にあずからせてもらうことにしよう。

 ところで、袋だけでなく、惣菜を入れるカップも、私だけ、一度使ったカップを洗ってリユースしているのだが、お弁当屋さんは気づいているだろうか?

聖火と高尾山

 聖火リレーを見ると、大変だな、と思ってしまう。

 大変だな、というか、それ以上の感想が出てこない。たしかに、チベットに対する中国の弾圧は糾弾するに値するものだろうが、中国のような、いわゆる「近代大国」が、少数民族を弾圧するという前時代的な行為を行っていることに対し、その相手の「巨大さ」ゆえに、アメリカや日本が、世界情勢の均衡を重視するあまり何も発言ができない、という事情も理解はできる。
 だがそういった事情は別にして、武装化した集団が聖火リレーの走者を取り囲み、街頭にはチベットの旗が靡き、卵や石を投げつけたり、リレーを妨害しようと走者に突っ込む人が現れては、警備隊に取り押さえられる、という光景を目の当たりにすると、「なんか話がややこしくなってしまったな」と、純粋な気まずさ、というか、ばつの悪さのようなものを感じてしまう。
 問題の根本とは別のところで、何かが捩れてしまった感があって、聖火リレーに関しては、どう考証すべきなのか分からなくなってしまっている。それは私個人の感想のみならず、各コメンテーターも多かれ少なかれ同じような感想を抱いているように見える。

 一つ確かに言えるのは、どんなに反発があって、問題や衝突が起ころうとも、「聖火リレーは止まる事はない」ということだ。
 聖火リレーは、いわば平和の象徴でもあり、聖火リレーを止めることは平和が暴力に屈することを意味する、という大義名分的な事情もあるのだが、もっと現実的に捉えても、聖火リレーを止めてしまえば、国際世論の反撥を受けることは必至だ。
 だから大義名分は別として、「周りに何を言われるか分からないから」という理由で、聖火リレーは止まる事はない。


 そういう意味では、高尾山のトンネル工事も同じなのだろうな、とふと考えた。
 工事業者の大義名分は別にして、ここで工事を止めてしまうと、他の自治体や、官僚や、都や支援団体から何を言われるか分からない、という理由で、工事が止める事ができない。
 どんなにチベットの旗を振り、石や卵を投げつけ、沿道に突っ込んでも、聖火リレーが止まらない、というのと同じように、どんなに抗議行動を続けても、トンネル工事が止まる事はないのだろう。

 高尾山の座り込みは今でも続いているようだし、この間は「高尾山にトンネルを掘らないで」というTシャツを着て、山周辺をぶらぶらする、というイベントもあったようだが、そのようなことをして、何がどうなったらトンネル工事が止まる、と、彼らは考えているのだろう。
 座り込みやイベントに意味がない、と言いたいのではない。座り込みやイベントから、トンネルの工事が止まるに至るまでに、どういうプロセスや段階を経ると各々が考えているのか、ということを、きちんと公表して共有すべきではないか、と思うのだ。
 例えば、1000人のTシャツを着ている人の姿を見た自治体の責任者が、その光景に涙を流して「申し訳なかった」と反省し、その手腕を駆使して各工事業者に手切れ金1000万円ずつ、合計3億7000万を出資し、工事を差し止めた、というようなシナリオを思い描いている人もいるのかもしれないし、1000人のTシャツを着た姿を、偶然その日観光のために山に来ていた富山県のネットコミュニティ組織のリーダーが目撃し、その姿に感動したリーダーが地元に帰ってから、その人脈とネットワークを駆使してマルチ商法で数万人の会員から3億の金を手に入れ、その資金を元にゲリラ組織を結成し、工事業者に殴りこみをかけて工事業者を物理的に粉砕した、というドラマチックな展開を期待している人もいるかもしれない。
 
 とにかく座り込みをして何がどうなったら工事が止まるのか、Tシャツを着て何がどうなったら工事が止まるのか、その「何がどうなったら」ということをきちんと共有する必要なあるのではないか、と思うのだ。
 たとえ毎日にように座り込みを続けている人でも、さすがに富山県のネット組織のリーダーがゲリラ集団を組織する、と考えているとは思えないのだが、では「じゃあどういうシナリオを思い描いているの?」と問われて、明確な答えを返せる人は、誰もいないような気がする。

 反発が大きく、問題や衝突があっても、現実がストップすることは、そうそうあることではない。
 そうそうあることではないからこそ、クリティカルな現実の転換のためには、深く、広く、正しく、冷静に考える必要があると思うのだが、聖火リレーを妨害する人も、高尾山のトンネル工事に抗議する人も、その行動の前に、そこまで深く考えているのだろうか。
 そこが、「なんか話がややこしくなってしまったな」と感じざるを得ない、一番の原因なのかもしれない。

暗くていいのだと思う

 自分で言うのもなんだが、最近の記事は暗い話題ばかりだ。
 新聞などを見ても、経済も政治も社会も明るいニュースがほとんどない。

 だが、経済にも政治にも社会にも明るいニュースがない、という状況で暗い気持ちになるのは、情感として妥当だし、今の世の中で元気な人間はかえって何か裏があるのではないか、と疑ってしまう。
 村上龍もエッセイで言っていた通り、「今、元気があるのはバカだけだ」ということなのだろう。

 環境運動も「楽しくエコ」などと言って、エコは楽しいものだ、というスローガンの下に活動を広げようとしている活動が数多く存在する。
 だが、地球温暖化の現状や、世界情勢を見ていると、状況は楽観できるようなものだとはとても思えない。
 べつに、「楽しくエコ」を批判したいのではない。不特定多数に、一つの運動を広げよう、という時には、その運動を「楽しい」と思わせるのは効果的だし、セオリーとして妥当なものだ。
 だが、エコを広げるための方策として「楽しい」というキーワードは有効だ、ということと、環境問題は楽しいものだ、ということは話が別だ。
 エコロジーが楽しい、というのは、例えるなら、戦場で周りの状況がまったく分からない、という状態で、極度の緊張状態にある兵士の気持ちを和らげるために歌を歌おう、となった場合暗い歌よりも明るい歌のほうが効果は高い、というのと同じことで、その場の方策としては効果的だが、それで問題が根本的に変わるとか、ということとは、また別次元の話なのだ。
 
 環境運動が楽しかろうとそうでなかろうと、現状では世界は非常に絶望的な状況にある、ということは、忘れるべきではないと思う。
 悲観と絶望から生まれる危機感が、最終的には人々を動かす力になるのだ。

 そういう意味で、暗いニュースから目を逸らさない、ということは非常に重要だと思う。
 世界も人々も明るくない、という状況で、無闇に明るさだけを求めるのは、いい悪いは別として決して現実的とは言えない。

人々にとって“世界”とはどこまでなのか

 未婚の男が増えて、息子が男手一つで両親の介護を行わなければならない、という家庭が増えているらしい、ということを前の記事で書いたが、そのことを知ったのは、そのような新聞の記事を見かけたからだった。
 そこでもう一つショッキングなニュースを知った。

 某所で、56歳の無職の男が、父親を窒息死させて殺人容疑で逮捕された。男は、寝たきりの父の介護に疲れたのだ、という。
 そこで、男の家庭環境の検証が行われたのだが、なんとこの男、20代初めに就職しすぐに退職した後、今日に至るまでの30年間、ずっと引きこもりを続けていたのだという。
 引きこもり、と言っても、現在イメージされるような、暗い部屋にこもりきって、という状況とはまた違うようなのだが、世間の目を気にして30年間家を出ることなく、仕事に就くこともなければ結婚することもなく、出会う人間は両親だけ、という生活を続けていたのだ。

 びっくりしたのは2つのことで、まず引きこもりという現象自体が既に30年以上前から存在していた、ということと、30年間引きこもり続けても生きてこられる環境が存在していた、ということだ。
 現在自室に引きこもっている少年たちも、いつかは大人になり、家庭環境の変化(それは家族の資産の枯渇であったり、両親の死別であったり)により、嫌が応にも社会に飛び出さざるを得なくなる。
 その“飛び出す瞬間”に、問題や事件が多発するにしても、生涯を引きこもり続けることなど不可能だ、という前提が社会には存在している思っていたし、事実私もそのように考えていた。

 だが、現実はもっと深刻なのだ、と考えを改めなくてはいけないのかもしれない。

 30年間家を一歩も出ることなく、そして自分の親が寝たきりとなり、消えようとするその瞬間ですら、家を飛び出すこともできず、果ては自らの手で、30年間「引きこもらせてくれた」両親を手にかけなければならなくなる。もう自身の髪にも白が目立ち、かつてその背中を見つめていた両親の歳に、自身がなろうとしていた、そんな時に。
 
 なんという人生だろう。

 その男にとって、家こそが世界のすべてだった。
 砂漠化に家を奪われる人、戦争で故郷を追われる人、住処の木々を焼き払われ涙にくれる人、そんな世界の人々はおろか、今日も遅くまで残業し電車の中で眠りこける父親、子供が塾から帰ってくるまで晩御飯を待っていようと時計を見つめる母親、明日朝学校に行ったらまず週末の部活の大会について友達を話さなければいけないだろうな、と思索に耽る少年、コンビニの残飯をいただこうといつも同じ時間に店前に姿を見せる猫、仮面ライダーのまねをして駅前に置いてあったフリーペーバーを棒状にして振り回す子供、そんな日常の何気ない人々の姿さえ

 彼にとっては、世界の外側の出来事だったのだ。

 
 そう考えると、地球温暖化と言って、現在の世界の惨状を“自分の世界の内側”だと捉えて、考えることができる人が、この国にはどれほどいるのだろう。

 いや、どれほど“いられる”のだろう。可能性の問題だ。

2018年、日本は「放置国家」に!?

 10年後の世界環境はどうなっているのか、そのことについてIPCCなどで、様々なシュミレーションが行われ、試算が出されている。
 最良な結果から最悪な結果まで、私たちは10年後の世界を、シュミレーションと試算を通じて見据え、その結果を逆算し、今をどのように生きていけばいいのかを導き出している。

 翻って、この国の10年後はどうなっているだろうか。

 私はかつて、この国が衰亡するのであれば、経済的な廃退でも、環境の悪化でもなく治安に悪化によってであろう、という予測を立てていた(そのことは以前にも記事にした記憶がある)。教養の衰退と治安の悪化は、かつて「コギャル」と呼ばれていた世代が社会人になる時あたりにピークに達し、若者の暴徒化による事件や社会問題が、様々な場面で表出化されるだろうと思っていた。
 それに伴って私が一つ考えていたのは、「親子の殺人」が急増するだろう、ということだった。
 いわゆる「ギャルママ」のような責任感のない親が、子供を育てることで、子供や不良になったり引きこもりになったりして、それが原因で親が子を殺したり、子が親を殺すような事件が多発するのではないだろうか、と読んでいたのだ。

 だが今考えると、その予測は間違っていたのではないか、と思い始めた。

 現在でも、例えば夜中0時に渋谷に行ったりすると、平気で制服の高校生がたむろしたりしている。
 逆に平日の真昼間でも、制服の子供の姿を見かけることが全然不思議ではなくなったし、制服を着て、見るからに学生のはずなのに、髪型やファッションや、顔の造型がエグザイルみたいになっていたりしている子も頻繁に見かけるようになった。

 夜中に街をぶらついたり、平日に街中をたむろしていたり、不良を通り越して、もう学生であることを放棄したような格好をしていたり、そういう学生の存在が許されている、ということは、それだけその子は、親や、学校や、地域や、社会から放っておかれている、ということで、その傾向が加速すれば、今後10年で、「誰もが誰もを見捨てる社会」が来るのではないか、と考えるようになった。
 「法治国家」ならぬ「放置国家」の誕生である。

 誰もが誰もを見捨てる社会になれば、子供は気の合う仲間同士だけ、母親は母親同士だけ、と言った具合に、利害関係を共にする同士だけがコミュニティを形成し、外部との接触を持たない、小さな「閉ざされたコミューン」が大量に形成されることになる。
 そうなればまず、この国から「マナー」という概念が消滅するだろう。
 マナーとは、異なる考え、異なる利害を持った人たちが、共通に不快感を感じないようにするための最低限の暗黙の決まりごと、のことなので、そもそも異なる考えや異なる利害をもった人たちを接触を持つ機会そのものが存在しない社会になれば、必然的にマナーを知る必要性がなくなる。

 マナーが消滅すれば、必然的にゴミのポイ捨てや公共物の破壊は増えるだろうし、違法行為が幅を利かせるようになるだろう。
 自分がやっていることで困る人が現れる、という想像力どころか、自分たちと同じ考えを持たない人がこの世界に存在する、という事実そのものが目に入らなくなるだろうし、たぶんこの10年で、「割り箸を浪費するとCO2が増えて、故郷が海に沈む人たちが現れる」と説明しても「え?そんな人いるわけないじゃん、渋谷は海に沈まないし」という返答の仕方を素でする人たちが現れるような気がする。

 10年後、この国はどうなっているだろうか。
 こうしたい、ああしたい、という夢や願望ではなく、悲観論から楽観論まで、冷静に考えてどういうシュミレーションが成り立つのか。
 その客観的な予測は、環境問題とも決して無縁ではない。

哲学カフェに行ってきた

 「関東実験哲学カフェ」なるものに参加してきた。
 
 哲学カフェ、とは、そもそもヨーロッパで始められた試みで、日常生活で感じる何気ない疑問や社会問題を、カフェでコーヒーでも飲みながら語ろう、というもので、日常の生活に哲学を下ろす、というか、哲学を日常生活に溶け込ませようと始められたものなのだそうだ。
 日本では「カフェフィロ」と言う名で、関西を中心に哲学カフェが開催されていたが、今年に入って関東の大学生のグループが、東京でも哲学カフェを始めた、という新聞の記事を見かけたので、そこに参加することにした。
 場所は根津にある某カフェ。

 今日の議題は「出不精でゴメンナサイ」。
 議題を上げた人が司会を務めるシステムになっているのだが、その人が、友人から海外旅行の誘いを受けたが、海外旅行の魅力が分からなくて誘いを断ったら、周りからブーイングを受けた、ということで、「何が楽しくて海外旅行になんて行くのでしょ?」というテーマになった。

 なぜ海外旅行に行くのか、という“目的”について挙げられたのは、次の3点に集約される。

 ①「非日常:ラベリングの喪失」
 ②「刺激:退屈な日常からの脱出、あるいは+αとしての好奇心の充足」
 ③「達成感:障害やストレスを乗り越えて何かを成し遂げた、という実感」

 ラベリングの喪失とは、身分や社会性を取っ払って、何者でもない「個人としての自分」が海外ではより鮮明に浮かび上がる、という意味で、何者でもない素の自分を表現できる快感、見たことのない世界を体験できる感動、そして目標を立てそれを達成した充実感が、海外旅行に行く人の原動力となっている、という話になった。

 ただ、こうして概念として「非日常・刺激・達成感」と列挙すれば、それは決して国内でも得られないものではないはずで、それなら何ゆえ人は海外を目指すのか、という話になったのだが、そこで私は
 「大宇宙に抱く壮大な神秘と、体内を巡るミクロ世界の神秘は、その大きさは違えど“神秘的である”という意味合いにおいて同等に語られるべきもので、壮大で荘厳な神秘の発見に重きを置く“学者気質”の人と、日常の中の小さな奇跡、その神秘に重きを置く“詩人気質”の人の、その前提の差が、海外旅行好きとそうでない人を分けているのではないだろうか」
 というようなことを言った。
 司会の人にとっては、なかなか説得力のある説明になったようで、“学者気質”と“詩人気質”という概念は、その場の思い付きではあったものの、なかなか上手いこと言ったな、と自分的にも満足だった。

 まったく面識のない人たちが、カフェという気楽なスペースで、一つの話題を議論する。これはなかなかに楽しい経験だ。
 人数が少なくて、皆冷静に人の話しに耳を傾け、殺伐とした雰囲気にならなかったのも良かったと思う。それこそ「大人の議論」と呼ぶにふさわしい場だった。

 次回は5月15日に開催されるらしい。クールに、そして率直に、人と意見を交わしたい人。時間があれば、いかがだろうか。

何よりもこの国のことを

 先日、出勤前にコンビニで買い物をした際、レジに並んでいたら、前にいた50代くらいのおじさんが、カップラーメンと缶ビールを3本買っていた。

 そのおじさんも、20代から働き始めて、この30年間、身を粉にして、仕事に情熱を燃やしてきたことだろう。30年間働き続けたその結果、平日の朝にカップラーメンと缶ビールで食事を済まさなければならない気持ちは、どのようなものなのだろう。

 30年間一生懸命働き続けた人が、カップラーメンと缶ビールで朝食を済ませなければならない、という現状で、本当に持続可能な社会を築くことが可能なのだろうか、という疑問があるが、「30年間働き続けてもカップラーメンと缶ビールで朝食を済ませなければならない人々がいるので、環境問題を解決させるのは難しい」という問いたてをする人は、あまりいない。
 おそらくそれは、環境問題自体が世界に目を向けているので、日本独自の社会問題として環境問題を捉える、というコンセンサス、というか下地ができていないからだろう。
 
 例えば、「芸能人の不用意発言を糾弾してその芸能人を潰そうとする人たちがいるので、環境問題を解決させるのは難しい」とか「未婚の男性が増えていて、親の介護を息子が男手ひとつで取り持たなければならないので、環境問題を解決させるのは難しい」という言い方をする人はいないし、逆に「日本で植林活動をすれば、山形県でりんご農園の営む農家の人たちが助かる」とか「ゴミのポイ捨てをなくせば、毎週日曜日に原宿でゴスロリファッションに身を包んでたむろしている少女たちの心が救われる」という言い方がされることもない。

 環境問題は、どこに目を向けているのだろう。

 この国は、いまかつてない閉塞感に覆われていて、閉ざされた人々の心が、様々な社会問題を生み出している。
 環境問題も、老老介護や無差別殺人や学校裏サイトや過労自殺や育児放棄や引きこもりやネットカフェ難民などと、並列に語られるべき問題なのではないだろうか。

 とりあえず、一度問うてみてほしい。
 「30年間働き続けてもカップラーメンと缶ビールで朝食を済ませなければならない人々がいて、環境問題の解決は可能だろうか」
 と。

「エコかっこいい」と言うからには

 「エコかっこいい」という言葉がある。
 
 エコをすることはかっこいい、という認識を広めて、もっと多くの人にエコの輪を広げよう、というスローガンだ。
 「エコかっこいい」という言葉がある以上、逆に言うと現状ではエコはかっこ悪いと思われている、ということなのだが、エコがかっこ悪い、という前提はどのようにして生まれ、誰が言い出したものなのか、が非常に気になっている。
 なぜなら、周りで見聞きする限り「“かっこ悪い”という理由でエコをしてない」などという話は聞いたことがないし、情報ソースとして、そのような認識があるというデータや統計を見たこともないからだ。
 エコがかっこ悪い、という前提は、じつは
 「なんでエコが広まらないんだろう・・・そうだ、昔吸う姿がカッコイイ、という理由でタバコが流行ったのと逆で、かっこ悪いと思われているからエコが広がらないんだ、そうに違いない」
  というような感じで、エコロジストが、エコが広まらなかったり、自分たちの活動が見向きされないことの理由として憶測で築き上げた口実で、言うなれば単純な被害妄想の一種なのではないか、と思っている。
 
 たぶん街行く人に
 「エコはかっこいいと思いますか、かっこ悪いと思いますか」
 と聞いたら、
 「かっこいいか悪いかはよく分からないけど、善い事だと思います」
 という返事が返ってくるだろう。
 そもそも普通の人にとってしてみれば、エコを「かっこいい・かっこ悪い」で判断する、という前提そのものが存在していない。

 「エコかっこいい」ということで言えば、例えば木村拓哉がエコをすれば「エコかっこいい」ということになるだろう。蒼井優がエコをすれば「エコかわいい」ということになるかもしれない。
 このように、「エコかっこいい」とは、内面や外見を磨いてカリスマになった人や、人格的に成熟した人がエコに手を付けること、のことを言うのである。
 人格的に成熟しておらず、人望も人徳もない人が、エコをかっこよく見せようと振舞ったとして、そういうものは「エコメッキ」とか「エコ化けの皮」と称されるもので、いずれ剥げゆく類のものなのである。

 「エコかっこいい」を広めたい、と思うのであれば、エステに行って外見を磨くか、人徳を磨いて誰からも好かれ、慕われる人間になるか、どちらかしかない。
 人は「エコをしているか」を見ているのではなく、「エコをしているそいつが“人間的に”魅力があるかどうか」を見ているのである。

 身もふたもないが、そういうものなのである。

緑の管理は大変だ

 ここ数日、東京はぐずついた天気が続いていた。
 そのおかげで、ベランダの窓の下に置いていたカプセルプランターたちも萎れてしまい、もう発芽から5ヶ月近く経つのだし、そろそろ寿命なのかもしれないな、と思っていた。
 先日、久々に太陽が顔を出して、そのままいつものように仕事に行って帰ってきたら、プランターは見事に息を吹き返していた。なんて現金な奴らなんだ。

 人間の感情は如何にして生まれたのか、というその起源について、感情とは、荒ぶる波や、穏やかな風や、春に咲く美しい花や、冬のしんとした静けさなど、自然の姿が見せる情動を模したものなのではないか、という説がある。
 緑を育てていると、たしかに自然にも感情はあるのかもしれないな、と思う。
 その感情は、より動物的、というか、人間で言うと赤ん坊の状態に近いもので、1日太陽を見られなかっただけですぐ萎んでしまうし、そう思うと太陽がちょっとでも顔を出したと思ったらすぐ機嫌を良くするし、より率直で、素直で、嘘がなく、正直だ。

 家にあるような小さな芽でさえそうなのだから、植林事業や農業で、より多くの、そしてより多種の自然を見守り、管理している人はもっと大変なのだろうな、と思う。
 熟練した人にもなると、木一つ一つの性格なども分かるのかもしれない。この杉の木はわがままだけど、こっちのヒノキはちょっとおしゃれ好きだ、みたいな。
 森を育てるためには、木を植えるだけでは不十分で、きちんと管理し、間伐して、手入れする必要があるのだという。
 それは言うなれば、人間の数十倍の寿命を持ちながら、永遠に赤ん坊の無邪気さと純朴さを備えた者への“子育て”のようなもので、ひょっとしたら、人間の子育てなんかよりもずっと大変なものなのかもしれない。


 ちなみに今日の緑たち。


 冬を越え、春を越え、みんなは今日も、元気です。


生き抜くコツは、辞めないこと

 地元の松屋に、50代半ばくらいのおじさんともおじいさんともつかない男性が、アルバイトで入ってきた。
 おそらく前の会社をリストラされたか、会社が倒産したか、なんにしろ、50代も半ばになって松屋にアルバイトで入ってくるには相当差し迫った理由があったのだろう。
 そのおじさん(ということにしておく)は、仕事だというのに金髪に思いっきりマスカラをつけた、コギャルみたいな先輩に、半分からかわれながら、仕事を教えてもらっていた。

 それから半年後。
 しばらく松屋からは遠ざかっていたのだが、松屋の箸が割り箸からリユースの箸に変わったというので、久しぶりに松屋に寄ってみたら、そのおじさんは、アルバイトのチーフとなっていて、深夜班の班長として、店を取り仕切っていた。

 おじさんは見事に打ち克ったのだな、と思った。

 電気グルーヴというテクノユニットが、つい先日8年ぶりの新譜を発表した。当時30代前半だった2人は、既に40代を越えていた。
 その新譜に関するインタビューで、8年ぶりの活動再開にも関わらず、いまだに注目を浴び続けることについて、芸能界で生き抜くコツを問われて、
 「辞めないこと」
 と答えたのだそうだ。
 落ち目になろうが、仲違いしようが、活動を休止しようが、解散せず、引退さえしなければ勝ちだ、と。

 生き抜くには、辞めないことだ。
 午前1時。だから私は、どんなに帰宅が遅くなろうとも、今日も書くことを止めないのである。