2008年05月31日
大したことない問題
例えば、今日目が覚めたのが普段より10分遅くなってしまいました。 それがショックで立ち直れない、と言ったら「そんな小さなことでくよくよするなよ」と思うだろうか。 例えば、今日の朝のニュースの星占いで、自分の星座が最下位でした。 それがショックで死にたい、と言ったら「そんな大した事ない理由で・・・」と思うだろうか。 この国で生きていると、否が応にも「順位付け・ランク付け」の洗礼を浴び続けることになる。 学校のテストで何番になったか、受験で何番になったか、今月の業務実績は何番だったから、会社で何番目に偉い地位についているか・・・ 幼いころからランク付けをされ、優秀な生徒と落ちこぼれに選別される子供たち。 落ちこぼれのレッテルを幼い頃から貼られ続けた子供は、自分を過小評価し、それが生きる自信そのものを失わせるとして、子供たちを順位付けするのをやめよう、という動きも、今は大きくなっている。人には人それぞれの個性があって、社会的にどこかが劣っていたとしても、他のどこかが優れていさえすれば、それを認め合うべきなのではないか、と。 だが、人を順位付け・ランク付けしてしまう、という私たちの風習は、既に無意識下にまで浸透していて、その代表的なものが「大したことはない」という言葉に表れている。 例えば星占いで最下位だったから死にたい、と言った人がいて、「そんな些細なことで・・・」と感じたとする。 だがその「些細」というのは、その人にとっての「標準」から見て「劣っている」と思うからこそ「些細」と感じるのであって、そこにはれっきとした「ランク付け」がなされている。 「些細なこと」「大した事ない」「小さいこと」表現は何でもいいが、そういった言葉は、人を励ましたり、受け入れたりしているように見えて、じつは相手をランク付けし、傷つけている、ということもありうる、ということだ。 本当は「大した事ない問題」など、一つもないのだ。こと人の心の問題にとっては。
- posted by よっひ~ |
- 23:22 |
- コメント(6) |
- トラックバック(0)
2008年05月29日
正しさゆえの過ち
うつの人に「頑張れ」と言ってはいけない、とよく言われる。外から見ると怠けているように見えても、その心の内では、葛藤や苦悩や懺悔など、様々な感情が渦巻き、その感情と精一杯闘い続けているからだ。 つまり、心の中では既に限界まで頑張り続けていて、うつの人から言わせれば「これ以上何を頑張ればいいんだ」という話になり、実際にうつの人の中でも、そのような訴えを起こす人も度々いる。 しかしそれは厳密に言うと、少し間違っているのではないか、と私は思う。 「頑張れ」とか「無理しなくていいよ」とか「少し休めば」とか「そんな小さなことにくよくよするなよ」とか、いろいろな人がいろいろなことを言う。 そのすべては、実際にすべて正しく、反論の余地もない。 だが、反論の余地がないからこそ、そんな彼らの声掛けや期待に応えることのできない自分が、申し訳なく思えてしまうのだ。 つまり、決してうつの人は彼らの励ましや慰めに反撥しているのではなく、きちんとその言葉を受け止め、その意味を理解し、それが正しく、心のこもった真摯な態度から投げかけられた物である、と分かっているからこそ、その期待に応えられない自分が、その人の存在そのものを否定してしまっているのではないか、と思ってしまうのだ。 うつになると、他人が自分のことを気にかけている、ということそのものが怖くなってしまう。だからことさらに孤独を感じたり、外との接触を避けたりする。 人は本当は孤独ではない、と重々分かっている。それでも自分は孤独だ、と思わざるを得ないのは、自分の支えてくれる人たちの存在の期待に、自分が応えられていない、と思っているからであり、自分のせいで他人が悲しい思いをするならば、自分の存在など認知されなければいい、と思ってしまうからだ。 うつの人が「自分は孤独だ」とか「理解者がいない」と嘆くのは、本当にそういう存在がいないのではなく、ある種の自己防衛なのだ。 だからこそ、うつの人への本当の理解とは、「言葉を受け止め、何も言わずただそばにいることだ」と言われる。 コミュニケーションとはキャッチボールだから、どうしても言葉を受け取ったら、それを投げ返したくなってしまう。 だが、うつの人は、正しく、心のこもった、優しい言葉が怖いのだ。 だから、ボールを受け取ったら、ただ、「受け取った」というサインだけを示してくれればいい。それが何よりの、理解になるのだ。
- posted by よっひ~ |
- 21:37 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2008年05月26日
ささやかな針
『HUNTER×HUNTER』という、いろいろな意味で有名なマンガがあって、その主人公の一人に、キルアと言う、クールでちょっとかっこいい奴がいる。 キルアは卓越した戦闘センスと能力を持ちながら、「自分が不利な状況にある」と判断すると、恐怖に体が支配され、逃げることばかりを考えてしまう、という本能的な癖を持っていた。 あるエピソードで、キルアが絶望的な状況に追い込まれ、それでも逃げてはいけない、と自分に必死になって言い聞かせるシーンが出てくる。 逃げてはいけない、でも逃げたいという本能に逆らえない、真の極限状態にまで追い込まれたとき、キルアは自分の髪の毛にあるものが刺さっていることに気づく。 それはキルアのお母さんが刺した、おまじないの針だった。息子を危険な目に合わせたくない、その一心で息子が危険な状況に陥った時、「逃げ出したくなるように」、針によって脳の神経を操作していたのだ。 そう、いつもキルアが逃げ出したい、と思っていたのは、本能などではなく、母親が息子を思う、親心だったのだ。 細かいディティールはおそらく間違っていると思うが、おおまかにこんな話だった、と思う。 何も信じられなくなって、しばらく何も考えられなかった。 『HUNTER×HUNTER』のエピソードを思い出したのは、きっと私の頭にも、針が刺さったのだな、と思ったからだ。針が刺された心当たりはあるが、ここはそういうことを糾弾する場ではないので、割愛する。 今日になって、針が抜けた。 きっかけは、元TBSアナウンサーの川田亜子さんが自殺した、というニュースを見たことだった。 川田さんは、自身のブログで、以前から不安定な精神状態や、体調の不良を吐露していて、心配する声が、少し前から芸能ニュースなどでも流れていた矢先だった。 結局川田さんは、最悪の選択を取らざるを得なかった。それは、「心配だ」「かわいそう」「大丈夫?」「無理しなくていいんだよ」という声が何百何千何万と囁かれる中で、最後まで川田さんの本当の思いを受け止めてあげられる人は、ついに現れなかった、ということだ。 人は孤独だ。どんなに恵まれ、どんなに幾多の人々に囲まれ、どんなに何不自由なかった、としても。 でも死んではいけないのだ。それは本当は人は孤独ではないから、ではなく、どんなに恵まれていても、最後には人は孤独だから。 一人でも生きよう。そう思ったら、信じる・信じないなど、些細なことなのだと、思い知られた。 たぶん今までのようなブログは書けないだろう。 それでも、復活したいと思います。また、よろしくお願いします。
- posted by よっひ~ |
- 21:38 |
- コメント(4) |
- トラックバック(0)
2008年05月21日
子供のような願い、そして悩み
何かが、食い違っている。 この世界の人たちが、もっと優しくなったらいいのにな、そう思っていた。 この世界の人たちが、もっと物や人を大切にして、あまり人を傷つけず、誰かと争ったりせずに、生きていけたらいいのにな、と思っていた。 誰もわがままを言わないで、誰も傷ついたり苦悩したりしないで、人間関係とかそんなことで変に気を遣ったりしないで、死にたいと思ったり、家に引きこもったりする人がいなくなればいいな、と思っていた。 原点は、そんな子供じみた願いのはずだった。 はじめエコロジーに興味を持ったのも、そんな願いを共有し、優しい世界を作ろうとしている人たちが、エコの世界にはたくさんいるのだろうな、と期待したからだった。 しかし、CO2を減らしさえすれば良いと考える風潮、熱に浮かされたように考証も分析もなくシュプレヒコールを上げる人々、世界を変えようとやっきになる裏で、置き去りにされ忘れ去られていく人たち。そのような物事を見ていくうちに、どうも環境保護と優しい世界を築く、ということは別に考えなければいけないようだ、と思い至った。 そして興味を持ったのがスピリチュアリティで、世界の皆が、マザー・テレサや、ダライ・ラマや、ブッダや、老子や、ホピの一族の教えを見直し、グレイトスピリッツや超越的なものに対する畏敬の念を持つようになれば、世界はもっと優しくなるのではないか、と考えたのだが、どうもオーラとか天使とかチャクラとか、そういったものに傾倒する人たちは、現実を飛び越えたどこか遠いところに行ってしまうようで、本当に傷つき、苦悩する人々を置き去りにしてしまう、という意味で、スピリチュアリティも何かが違う、と思い始めた。 社会問題に切り込み、事件や、問題を通していろいろなことを考えてもみたが、昨日の記事がそうだったように、現実の問題にメスを入れるとなると、そうしても誰かを敵に回したり、愚劣なアンチテーゼに陥ってしまう。 どうすればいいのだろう、どうするべきなのだろう、正直、最近は分からなくなってきている。 皆どうしてエコロジーに興味を持ったのだろう。皆どうして天使に会おうとするのだろう。 何を思い、何を願い、どういう世界を夢見ているのだろう。 とにかく私は、自然を大切にするあまりに人々が憎しみ合う世界とか、天使が見える見えないで、救われる人種と見捨てられる人種が分けられる世界とか、涙する人たちを置き去りにして、みんなで熱狂して社会を変革しようと熱を上げる社会とか、オーラが乱れているからという理由で「地獄に落ちる」と平気で言われてしまう社会とか、そういったものが嫌なのだ。 何を問題点だと感じていて、その解決のために何をすればいいのか、そのことが見えなくなってきている。 もう一度考えよう。エコなのか、スピなのか、それとも他の何かなのか。 皆が優しい世界になれる、そのために必要なのは。
- posted by よっひ~ |
- 01:05 |
- コメント(4) |
- トラックバック(0)
2008年05月19日
願いが叶うとしても、順番的に私であることはありえない
例えば、中東のある国で魔法のランプをこすった王様がいて、極東のある国でドラゴンボールを集めた少年がいて、西方のある国で天竺に辿り着いたお坊さんがいて、遥か西の国で神秘の力を持ったリングを手にした青年がいたとする。 4人が一斉に、「世界の王になりたい」と願ったとしたら、この世界はどうなるのだろう。 夢を見ることは、この世界で唯一誰にも侵害されることのない、万人に平等に与えられた絶対権利である。 だが、夢を叶えたい、と思った場合、夢を叶える「優先順位」があるべきなのではないか、と思う。 私も夢を見るし、叶えたい夢がある。だが、もし夢が叶うとしたら、私なんかよりも先に、アフリカで飢餓で苦しむ人たちや、チベットで迫害を受けている人たちや、上野で野宿をしている人たちの夢を先に叶えてあげてほしい、と思うし、世界の現実を見る限り、順番的に言って日本人が夢を叶えるのは、相当後回しでいいのではないか、と思う。 この国の人が願う「夢」とは何なのだろう、と思う。 今日の新聞に、「見るだけで幸せになれる魔法の本」とか「聴くだけで心が浄化されるCD」などという物の広告が載っていた。この本を読んだり、CDを聴いたりすれば、人間関係が良くなったり、金運がアップしたり、悩みや苦しみが消えたりするらしい。 新聞にでかでかと広告が載るくらいだから、それなりに売れていて、本当に本を読むだけで幸せになれる、と信じている人たちがそれなりにいる、ということだが、じゃあその本を四川に持っていって被災者の人に読ませれば地震の被害も軽減するのではないか、と考えてふろしきに本を100冊包んで四川に飛ぼう、という人はいないし、CDをチベットに持っていって、いがみ合う僧と軍の両者に聞かせれば双方の心が浄化されて暴動は収まるのではないか、と考えて、ラジカセ片手にチベットに飛ぶ、という人もいない。 そんなことをすれば、笑い話云々以前に、だたの不謹慎、ということになってしまう。 つまりこの国の人は、夢を叶えたい、と本気で思っていて、これさえあれば夢が叶う、という物に本気になって食いついているが、物そのものの信憑性を信じているわけではない、ということだ。 それはこの国の人たちにとって「夢」というものが、それほどに趣味的で軽々しいものだ、ということでもある。 そういう意味で、この国の人はもう「自分が幸せになりたい」ということを考える必要などないのではないだろうか、と思う。 既にこの国は、夢が趣味的な物になるほどに、平和で、満ち足りているからだ。これ以上に何を望むことがあるだろう。 パワーストーンとか、幸福の壷とか、曼荼羅シールとか、いろいろな幸福グッズがあるが、本当にその物の効果がある、と信じるなら、そのグッズを購入した上で、例えばアフリカにそのグッズを送ってみたらどうだろう。もちろん、送り主の署名付きで。 例えば、子供が飢えで苦しんでいる親子がいて、その子の手にパワーストーンを握らせて、「この石を持って強く願えば食べ物が空から降ってくるから」と面と向かって本気で言えるだろうか。 もし本気で言えるようなら・・・それはそれで力になるかもしれない。
- posted by よっひ~ |
- 23:11 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)
2008年05月18日
喜びは、悲しみの後に
昨日の記事を書いた後、しばらくして、ふと 「喜びは悲しみの後に」 という言葉を思い出した。たしかバート・バカラックの歌のタイトルだったものだ。 老子の言葉の中に、「美しいものは、汚いものがあるから美しいと呼ばれるんだ」というものがある。 「善悪だって、悪があるから善と呼ばれる。「在る」も、「無い」があるからこそ在ると言えるのだ。お互いに、片一方だけでは決して存在し得ない」 と、その言葉が続くのだが、それと同じように、人は悲しみを知るからこそ喜びを知り、悲しみの只中にいるからこそ、喜びを求める。悲しみと喜びは決して片方だけでは存在し得ない。 そういう意味で、あらゆる喜びや幸せは、悲しみを種とし、悲しみを糧として、初めて花開く。幸せ“だけ”が存在する世界などありえないし、願えば願いは叶うにしろ、願いが“叶い続ける”世界などというものも、やはり存在し得ない。 だから、悲しみを知らぬものが語る幸福などに、説得力も現実感もないし、だからこそ、「大丈夫」とか「頑張れ」などという言葉に、悲しみ、苦しみを知る人ほど拒否反応を示す。「お前なんかに、私の苦しみの何が分かるのか」と。 「大丈夫」とか「頑張れ」とか「願いは叶う」とか「幸せになれる」とか「夢を引き寄せよう」とか「笑顔溢れる人生を生きよう」とか、いろいろな人がいろいろなことを言っている。そういう人こそ、まずは悲しみを語るべきではないのか。 私は悲しいのだ。世界は苦しいのだ。心は痛むのだ。社会は冷たいのだ。どうにもできないのだ。どうすればいいのか分からないのだ。体が動かないのだ。声が出ないのだ。 そのような悲しみを認め、受け入れ、それを糧にして語られる喜びこそ、真のメッセージ、となり得るのではないか。 もうひとつ引用する。谷川俊太郎氏の『黄金の魚』という詩の一節だ。 「いのちは いのちをいけにえとして ひかりかがやく しあわせは ふしあわせをやしないとして はなひらく どんなよろこびのふかいうみにも ひとつぶのなみだが とけていないということはない」 悲しみという種子の蒔かれぬ土壌に、喜びという花が咲き誇ることは、決してないだろう。
- posted by よっひ~ |
- 22:57 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2008年05月17日
魂の居場所
とあるヒーラーの人に、「自分の存在を受け入れてくれるから、という動機でスピリチュアルに傾倒するのは、間違っている」という意味合いのことを言われた。 基本的に、正しいと思う。 だが、「自分の存在を受け入れてくれる場所に依存する」ということは、それほどに間違ったことなのだろうか。 例えば、スピリチュアルもそうだし、宗教や寺子屋やカウンセリングルーム、心療内科やNGOなど、一般社会から外れた人たちの受け皿となるべき存在が、もしその開いた手を閉じてしまったら、はぐれた魂は、どこへ向かえばいいのだろう。 いまこの国は、一度“失敗”してしまったら、もう後はない、と言われる。敗者復活戦は存在しないのだ。 しかしそれでも、“失敗”してしまう人たち、というのはかなりの数がいて、そういう人たちが、ひきこもりになったり、ニートになったり、自暴自棄になったりする。 自分の存在には価値がない、と思っていて、自分の存在など誰も認めてくれないのだ、と思っている人たち。そういった人たちのための受け皿が必要とされていて、それを現在、宗教や心療内科や、あるいはスピリチュアルの思想が請け負っている側面がある。 逆に言えば、一般社会で「無価値」の烙印を押された人々を受け入れる最後の拠り所として、宗教や心療内科やスピリチュアルは存在していて、だから、「無価値」の烙印をお押された人たちが、受け皿に救いを求めるのは当然の道理であり、その行為そのものを「甘え」と断じてしまうことは、その人の人間性そのものを否定することになってしまう。 誰だって自分の話を聞いてほしいし、自分の価値を認めてほしいし、自分の存在を受け入れてもらいたい。 誰だって、魂の居場所を求めているのだ。 これからもっと、受け皿が必要とされる時代になるだろう。 それに伴い、受け皿が受け皿であるために乗り越えなければならない課題も増えてくるだろう。 基本的に何かに依存し、甘えることは間違っている、と分かっていても、依存や、甘えを受け入れてくれる空間が人には必要とされているし、平和や、調和や、真の愛が生まれる場所があるとすれば、そのような空間から、なのではないだろうか、と思う。
- posted by よっひ~ |
- 22:32 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2008年05月16日
エコとは寿命を全うすること。そのために・・・
エコロジーとは「人類延命作戦」である、と、このブログで何度も言及してきたし、そのような考え方は、エコロジーそのものの普及と共に、徐々に広まりつつあるように思う。 エコロジーの意義が「人類が生きながらえる環境を維持すること」であるならば、その目標は「まず今生きている人々が、すべからく寿命を全うできること」にあるはずだが、今生きている人たちが寿命を全うできるのか、という観点からエコロジーを捉えている人はあまり多くない。 寿命を全うできる、という観点で考えると、そこには様々な要素が存在する。 例えばお金がなければその日の食い扶持にありつくこともできないだろうし、友達がいなかったら一人暮らしで急に倒れたときに誰にも助けを求められず孤独死するかもしれない。会社の人間関係がうまくいかないと憂鬱になって思わず電車に飛び込みたくなってしまうかもしれないし、そもそも働いていないと周りの人間がすべて敵に見えてしまって強迫観念で自分の首を絞めたくなってしまうかもしれない。 そう考えると、「今生きている人々が寿命を全うできること」という観点において、「地球温暖化で世界が砂漠化するかもしれない」とか「北極の氷が溶けて海域が上り、国土が海に沈むかもしれない」ということは、割と優先順位が低いのだ、と言うことが分かる。 今日ふと、街に出ている「燃えるゴミ」の山を見ていて、まだまだ人々のエコロジーに対する意識は低いのだな、と思うと同時に、なぜいつまでも人々のエコロジーに対する意識は上らないのだろう、と考えて、たぶんより多くの物を破壊し、より多くの人々の心を蹂躙しないと、出世ができなかったり、会社で白い目で見られたりして、会社で生きていくことができず、要するに、破壊して、蹂躙しないと寿命が全うできないからなのだろうな、と思い至った。 そこがおそらく、エコロジーと社会の関係に横たわる、もっとも大きな「ねじれ」なのだろう。 控えめに、何も求めず、誰も傷つけず、何も破壊せずに、会社で儲けを出せますか。会社で何も儲けを出さず、会社で生き続けることができますか。会社で生き続けることができず、その日生きる金もないままに、寿命を全うすることができますか。自分の寿命が全うできない、と分かっているのに、世界のことを考えることができますか。 そう考えていくと、普通に生きていて、エコロジーを考えることは、思った以上に難しいのだ、と気づく。 そして、環境を考える上に優先的に考えなければならないのは、「普通の人が、誰も傷つけず、何も破壊せずに、寿命を全うできるライフスタイル」を築くことなのだ、と気づく。 この国における、年間の自殺者は約3万人。おそらくこの3万人の人たちは、形はどうあれ、何者かに蹂躙され、何物かに破壊された人たちだ。 これをゼロにすることが、何よりのエコロジーなのだ、と思う。
- posted by よっひ~ |
- 09:58 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2008年05月15日
アート、というもの
人は、海は蒼いと言う。しかし私には、海が血の様な鮮烈な紅に見えるのだ。 さあ、どうしよう。 こういう場合、人の反応は2つに分かれる。「自分は頭がおかしいのかもしれない」と思うタイプと、「人の見ている世界は間違っていて、私にだけ世界の真実が見えているのだ」と思うタイプ。 つまり、要は優劣の問題で、自分は人よりも“欠けている”のだ、と思うタイプと、自分は人よりも“突出している”のだ、と思うタイプに分かれる、ということだが、どちらにしても、人は「自分は他人と違う世界が見えている」ということを知ったとき、どうしてもそれを吐き出さずにはいられない。“欠けている”人は、自らの欠陥を受け入れてもらうために、“突出している”人は、庶民に世界の真実を知らしめるために。 だから“欠けている人”も“突出している人”も、世界に向かって叫ぶ。海は紅いのだと。 その叫びを、人は「アート」と呼び、叫び続ける人を「アーティスト」と呼ぶ。 絵画から音楽から彫刻から、慈善事業からこのようなブログに至るまで、「私には世界が人々と異なって見える」という叫びは、すべてが表現であり、アートである。技量的な優劣は存在しても、その存在は等しく、平等である。 逆に言うと、海が紅く見えるからこそ、人はアートを目指すのであり、海が青く見える人には、そもそもアートという領域を欲する必然性が存在しない。 そういう意味で、今、海が紅いと声高に叫ぶ人は、徐々に減っているように思う。 エコロジストも、本当は「海が紅く見える人」の1人、なのではないかと思う。 エコロジストにこそ「アート」が必要なのではないだろうか。 「私には、世界が人々を違って見えるのだ」それを世界に叫ぶために。
- posted by よっひ~ |
- 22:46 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2008年05月14日
ひとつの時代の終焉
「私たちは 次々と大量に作られるモノを 次々と大量に消費していく 新しいデザインで 機能で 広告で 欲望は刺激され モノの寿命はまた短くなる このぐるぐる回るサイクルに いつまでも回されるのだろうか ・・・」 現在旭化成へーベルハウスのCMで朗読されるメッセージなのだと言う。今日の新聞に載っていた。 大量生産大量消費の中心的な存在であったメディアの中で、これほどまでにストレートな自己批判は前代未聞だとして、各所で話題になっているという。 もう大量生産大量消費社会は限界なのだ、と誰もが気づき始めている。 いや、それは大量生産大量消費にとどまらない。 つい先日は、現在心の病を抱えて休職をしている社員がいる企業は全体の6割にも及ぶ、という統計が報道された。 誰もが傷つき、誰もが疲弊し、誰もが恨み、誰もが嫉み、誰もがうなだれ、誰もが自暴自棄になる。 本当は誰もそんなものを求めてなどいなかったのに、誰も止めることができない。 もうそんな世界には限界が来ていて、数知れない犠牲者が既に存在している。 本当は何を手にしたかったのだろう。本当は何をしたいと思っていたのだろう。本当はどこに辿り着きたかったのだろう。本当は、私は何者になりたかったのだろう。 そのことに立ち返る時が、もう、来ているのだ。 新聞の記事では、当のCMの製作者のメッセージも掲載されていて、住宅事情と絡めて、今回のCMを製作した意図が語られていたが、その最後を、こう締めくくっている。 「――メッセージを込めた。もうそれが、届く時代でしょう」 ある一つの時代が終わりつつある。いや、終わらせる時が来ている。 もう「こんなご時勢だから」とか「こんな世の中だから」とか「こんな社会だから」とか、言わなくても済むかもしれない。 飛び出そう。飛び出すべきだ。
- posted by よっひ~ |
- 22:34 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)


