2008年07月30日
「環境教育」と「環境問題教育」
面白い議論を見かけた。 「環境教育」と「環境“問題”教育」は、別物として考えるべきではないのか、というものだ。 要するに「自然は神秘的でかけがえのないものだ」ということを知ることと、「かけがえのないものなのだから大切にしよう」ということは、また別問題として考えるべきなのではないか、というのだ。 この考え方は様々な問題に応用ができると思う。例えば・・・ 「命は大切だ」ということと、「だから人を殺したり自殺をしてはいけない」ということはまた別問題だ。 「世界には戦争に巻き込まれて難民になっている人々がたくさんいる」ということと、「だから戦争はなくしていかなければならない」ということはまた別問題だ。 「森林破壊が地球温暖化を招いている」ということと「だから森林を再生させるような消費を選択しなければならない」ということはまた別問題だ。 要は「かけがえのないものが失われようとしている」という事実を知った時、人はオートメーションで「ではそのものを守らなければならない」という考えに行き着くものだ、と私たちは考えている。 だがそれはいわゆる「性善説」に基づいた幻想にしか過ぎないのではないか。かけがえのないものが失われようとしている時、それを守らなければならない、と思うようになるためにはまた別段階での教育が必要で、そういう意味で、「自然は素晴らしい」という教育と「だから自然を守ろう」という教育は、まったく別物として行われるべきではないのか、とその議論は主張していたのだ。 なかなか鋭い指摘だと思う。 その指摘に則るのであれば、現段階では「環境教育」は盛んに行われているものの、「環境問題教育」は、ほとんど手付かずの状態にある、と言っても過言ではない。 本当は、環境教育を行う「土台」として、「失われようとしている大切なものは、守っていかなければならない」という道徳教育が必要なのではないだろうか。 もう一つ議論の中で面白い指摘だな、と思ったのは、「環境教育」と「環境問題教育」を別物として考えるならば、環境教育の教科書は『アース』で、環境問題教育の教科書は『不都合な真実』になる、という指摘だ。 何か言わんとしていることは、よく分かる気がする。
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2008年07月29日
「排除型社会」の未来
昨日の通勤だけで、3件の人身事故のニュースを目撃した。昨日だけで3人の方が亡くなったわけだ。 新聞によると、年間の自殺者が10万人を超えてから、もう10年が経つと言う。いつの間にかこの国の失業率は4%を超えていたし、秋葉原の事件を後追いするかのように、ナイフを使った凶行が後を絶えない。 今日、図書館で『排除型社会』という本を目にした。その本を読んだ、というわけではなかったが、現在を端的に表現する言葉として、「排除型社会」は的を得ているな、と思った。 結局今のこの国における様々な諸問題の根本は「誰かが誰かを見捨てるような社会となり、見捨てられた人間の受け皿が整備されていない」という、その一言に尽きる。 周りと同調できなくて排除される人、競争についていけなくて脱落する人、子供に金と物だけ与えて子供の存在をさっさと排除しようとする親、国民の義務から脱落し自暴自棄になるニート、誰からも受け入れられず世界から見捨てられたと感じる引きこもり、・・・ 現代社会は、「汚い物、異なる物、ずれている物、邪魔な物」をどんどん排除し、まるで無菌室のような「純潔な個の領域」を守り抜こうとする社会・世間・企業、そして個人によって形成されている。 そして「排除されなかった人々」と「排除された人々」が、それぞれに異なったルールによって社会を形成している。 排除された人々は行き場を失い、ある人は職を失ってホームレスになったり、ある人は線路に飛び込んだりし、そしてある人は社会のすべてを憎悪し凶行に走ったりする。 エコロジーに関して言うならば、エコロジー(というより世界全体の問題に目を向けられる余裕)は、「排除されなかった人々」の特権となっていて、「エコロジーに目を向けられる余裕のある人々」と「それどころではない人々」で、社会は分断されようとしている。 エコロジーに目を向ける余裕のない「排除された人々」は、未来に希望を見出すこともできずに、これからも大量消費を続けていくだろう。そして、分断が広がれば広がるほどに、エコロジーは「特権階級の勲章」のようなものになっていき、国民全員の意識ではなく、特権階級者のステータスとして一部の人間だけに機能するようなものに変質していくだろう。 「排除型社会」を止めるには、人々の“モラル”として、人を排除しないようにする「教育」が必要なのと、万が一「排除」された場合の「セーフティネット」を整備する必要がある。 そのために一人ひとりは何ができるのか。 エコロジカルな社会を実現するためには、その“土台”として、築いていかなければならない課題がたくさんあるのだ。
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2008年07月27日
9条は本当に守られるのか
そういえば、一時期『mixi』内で、名前の後ろに「@free Tibet」と付ける運動が流行っていた。今ではそんな人は見かけなくなってしまったが、あの人たちは今どこで何をしているのだろう。チベットのことなんて、どうでもよくなってしまったのだろうか。 なぜそんなことを思い出したのかというと、ちょっとした折に、今年の5月に「9条世界会議」なるものが行われたことを、思い出す機会があったからだ。そういえばフリーチベットキャンペーンも同時期だったな、と思ったのだ。 結局5月の「9条世界会議」以降、憲法9条を世界に広めるキャンペーンに、何か進展はあったのだろうか。進展、というより、9条世界会議そのものに、何か現実を変える力やきっかけはあったのだろうか。 いろいろな人が憲法改憲に反対していて、「9条を守ろう」という運動は、今でも盛んに行われている。 だがそういった運動のほとんどは「9条を守ろう」とか「9条を世界に広めよう」というスローガンを、ただ声高に叫び続けるだけだ。 率直に言ってしまえば、好きで憲法を変えたいと思っている人など、どこにもいない。相当酔狂なミリタリーマニアでもない限り、好んで戦争をしたい、などと思っている人もいない。 だが、国際情勢からの要請や、テロの危険性などが高まってくるにつれ、「平和がいいよね」とだけ言っているわけにはいかない、というのが正直なところで、「憲法9条はあったほうがいいけど、“現実的にはそうも言ってられないんだよ”」というのが、大半の人の意見なのではないか、と思う。 だからこそ、本当に憲法9条を守りたい、と願うならば「現実的にはそうも言ってられない」という根本を詰む必要こそがあって、それは例えば、イランに視察に行って大量殺戮兵器がないことを証明して見せたり、金正日と直接交渉に赴いたり、アルジャジーラと提携を結んでテロリストに関する情報をメディアに頒布したり、といったことなのだが、そういう方向へ「9条を守ろう」運動が動くことはどうもなさそうだ。 人々が声を上げて、それが集まって大きな声になれば、世界は変わる・・・などというほど、現実は甘くはない。 憲法9条は、本当に守られるのか。いや、真の意味での守ろう、という運動にちゃんと発展するのかどうか。これからの動向が注目される。
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2008年07月26日
残された時間
この星に残された時間はあとわずかだ、と人は言う。 だが意外と誰もが見落としているのは、この星の残された時間よりも、自分の人生に残された時間のほうがずっと少ない、ということだ。 ああそうだね、地球はなんだかんだであと何百年何千年と持つけれど、人の一生なんて、もって100年弱だものね、と考えるのは野暮というものだ。 10年後、あなたが生きている保証がどこにある。 なぜか人は、天寿を全うするにしろ、病気か何かでリタイアするにしろ、「平均寿命程度には生きられるだろう」という幻想を決して手放さない。 だから「この星を生きる自分」というものを考えたときにも、無意識のうちに80年後90年後の自分まで勘定に数えてしまうが、だが人間の一生などというものは、ある日突然終わりを告げる。それは10年後の話なのかもしれないし、ひょっとしたら、もう明日の話なのかもしれない。 残された時間は、少ないのである。 エコロジーを語る際に「未来の子供たちのために」というスローガンを掲げることがあるが、実際に未来の子供たちの姿を想像したとき、必ずその子供たちの隣に佇む「自分の姿」というものを共に想像しているはずだ。未来の子供たちと、自分は共に「生きているはずだ」、それを疑う余地はない。 だが実際には未来の子供たちの姿の隣に、貴方の姿が共にある可能性は、限りなくゼロに近いと思っていい。 だからこそ、「今、ここで、自分はどう生きるのか」そのことが大事なのだ。 お前は何者だ、何のために生まれてきた、お前の価値は何だ、ここで何をしようとしているのだ、お前は世界にとっての何なのだ。 そのことを問い続け、選択し続けること。 世界のとっての自分の価値を精一杯に全うすること、それこそが「未来へ希望を託す」ということなのではないだろうか。 未来を生きるのではない、今を生きるのだ。
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2008年07月24日
世界の行く末、自分の人生
世界の行く末を案じる声は多い。だがそれより前に、自分の人生はどうなるのだろうか、明日さえ見えない人はもっと多い。 世界はどうなるのだろうか、今何をすべきなのだろうか、ということと、自分は何をすべきなのだろうか、何ができるのだろうか、ということを考えるのとでは、若干意味合いが変わってくる。 例えば、この「エコナコト」では、記事を1つ書くごとに1円が寄付される仕組みになっている。 じゃあ自分の人生を顧みて、世界の行く末を案じて、自分が本当にしたかったことが「寄付をすること」だったのか、と問われると、そうだ、と断言するのは難しい。 世界の行く末と、自分の人生を考えることは、ある部分で重なっていて、ある部分に差異がある。そこで、「自分と世界」の距離感を掴めないと、どこかで失敗する。 例えば森林が減っていて、植林活動に貢献したい、と思ったとする。だが今から林業に転職するのは難しいとなった場合、植林活動に貢献する方法があるとすれば、植林事業に投資することで、結果森を救うために必要なことは「投資をするための資金を稼ぐ」こととなり、要するに「地球を救うためには課長から部長に昇進するのが一番早い」という結論に落ち着いたりすることもある。 だがそこで、「自分と世界」の距離感が掴めないと、庭に花を植えて、自分の家の庭が緑に溢れたからこれで地球環境に貢献したのだ、などという倒錯が生まれたりする。 世界は今不安要素で満ち溢れている。だがその中で自分が本当にしたいこと、できることとは何なのか、それを考えるのは、本当に難しい。
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2008年07月23日
森林を再生するリスク
新聞に某養蜂場の社長と大学教授という人の対談が掲載されていて、文明の破壊の歴史は森林の破壊の歴史だ、と熱く語り合っていた。 温暖化とかCO2削減とか低炭素化社会とか、相変わらずのキーワードを不用意に引用しているあたり、何か浅いな、という印象を拭えない対談だったが、やはり結論は「森林を再生させなければなりません!」というありきたりなものに終わってしまった。 森林が破壊されることで、環境破壊が起きているのは分かる。だから森林を再生させなければならない、という意見は正しい。 だが問題は、「なぜそれでも森林破壊は止まらないのか」ということと、「何が森林再生の足枷となっているのか」ということで、もう語るべきは「森林を再生するリスク」へとシフトする時期に来ているのではないだろうか。 例えば焼畑で焼き払われた森林の多くは畑や牧場に姿を変える。 なぜ畑や牧場に姿を変えるのか。それだけ食物を必要とする人間の絶対数が増えているからである。 だから、今畑になっている場所を再び森林に戻すとするならば、それだけ食物を必要をする人間の数を減らさなければならない。 つまり、何千何万という単位で、世界の誰かを殺害しなければならないのである。 いやいや、そうではなくて、現在は日本のように食物を大量に輸入しては大量に廃棄している国もあって、必要以上に食物が作られすぎているのだ。だからその「過剰分」の畑を森林に戻しさえすればいいのだ、という声もあるだろう。 しかしそれでも、その場合それまで生産し流通していた食物が姿を消すのだから、その食物を生産し、販売していた企業が大打撃を受けることになるだろう。減収だけで済めばいいが、企業の大量倒産、大量リストラの断行、という事態になれば、今のサブプライムローンのように、大量の難民が発生し、世界的な悪影響を及ぼす危険性もある。 要するに、「破壊されたものを元に戻そう」と、言うのは簡単だが、現実はそんな簡単な話ではないのである。 「あるものを得ようとすれば、他の何かが犠牲になる」というのは、人生における大前提のはずだが、ことエコロジーにおいては、「何かを得ようとして犠牲になるリスク」に目を背けることが多い。 例えば森林再生、ということで考えるならば、発言者の責任として、その養蜂場が、森林を破壊している食物会社からの転職者を無条件で採用する、と宣言すれば、大幅な森林破壊の抑制が図れるだろうが、そのような“責任”を果たそうとするような企業は、その養蜂場含めてどこにも存在しないだろう。 ここまで環境破壊は進んだ状態が“常態”となっている現状で、世界を変えようとすれば、必ず犠牲者が現れる。その際のリスクヘッジやリスクマネジメントが語られない限り、環境の再生は、進まないだろう。
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2008年07月21日
エコロジーは偽善なのか
サブプライムローンの破綻で、アメリカは大変なことになっているらしい。 ある人は家を失い、ある人は病床に伏した妻を病院に連れて行くことすらままならず死別し、ある人はワゴン車の中での生活を余儀なくされ、ある人は一流大学卒のエンジニアであったにも関わらず、家も職も失い、半年たっても再就職できずにいる。 ローン会社の破綻が、何ゆえにここまで全世界に影響を与えているのか、私はその原理を正確に理解しているわけではない。 だが、一つだけたしかなのは、彼らからしてみれば、「エコロジーどころではない」のだろうな、ということだ。 エコロジーどころではない人がいる限り、持続可能社会や低炭素化社会と呼ばれる社会を実現するのは到底無理な話だ、と思うのだが、じゃあエコロジーな社会を実現するために、サブプライムローンで職を失った人に職を斡旋しよう、という人はいない。 村上龍がマイクロソフトのサイトの中で、「なぜ世界のセレブは、自国に貧困に目を背け、アフリカの貧困ばかりに目を向けるのか」という話をしていたことがあったが、それと同じで、なぜ人々は自国の問題に目を背け、世界の温暖化ばかりに目を向けるのか、という疑問は、どこかでくすぶっている。 「エコロジーは偽善だ」という言い分があるという。 たぶん「偽善」という表現は正確ではなく、自国の問題に目を背けている、という意味合いでの「非人道的」という表現が近いのだろうな、と思う。 例えば、息子が40度の高熱を出して倒れてしまって、母が父の会社に電話をした。「息子が今にも死んじゃいそうで大変なの!早く帰ってきて!!」 そこで父が「ばかやろう!息子が死ぬかどうかなんて、アフリカで飢餓で苦しんでいる子供に比べればどうでもいい問題だろうか!放っておけ!」と言ったら、さすがに誰だって、何て薄情で非人道的な人間だろう、と思うことだろう。 おそらく、同じような感覚を、人々はエコロジーに対して抱いているのではないだろうか。 どんな国だって、重大な社会問題を抱えていて、エコロジーどころではない人がたくさんいる。 自国の社会問題に目を背けて、エコロジーさえ語っていればいい、という態度は、正しいか正しくないかは別として、エコロジーに対する真剣さが足りないと思う。 エコロジーを語るなら、社会問題を語れ。それは、エコロジーに真摯に向き合う上での、一つの責務だと思う。
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2008年07月20日
誰も知らない世界
接客業をしている関係上、様々な人に出会うのだが、本当に酷い人がいる。 生活保護をでっち上げて豪遊している人や、1週間風呂に入っていなくて足が化膿してしまっている人、重度の痴呆で自分がなぜここにいるのか分からなくなる人や、うつむく自分の子供の顔を平手で殴りながら無理やり商品を選ばせる親、雇い主に連れてこられた日雇い労働者や、経済難で5000円が払えない老人、万引き犯やクレーマー、自分の言い分しか受け付けない人や、ヒステリーで商品が顔に触れただけで叫び声を上げる人、・・・・ そういう人たちが現実にいることを知っていて、そういう無名の最底辺にいる人たちが、この世界を構成しているのだ、と分かっているからこそ、私が世界を語るときには、必ずこういう人たちの目線から物を語ることになる。 だがおそらく、公務員や営業マン、メーカー勤務の人やIT企業の人や、会社の重役の人たちにとっては、ワーキングプアやモンスターや、ホームレスや障害者の存在など、テレビや本の中の世界の話で、彼らが世界を語る時、そういう人たちの存在は、物の換算にすら入っていないのだろう。 だから、私の語る世界と、他の人が語る世界は、どこかでズレがあり、どこかに違和が生じている。 昔健康器具の営業をしていた、という人がいて、その人が言うには、末期の高齢者の有様というのは、この世の地獄を見るようなものらしい。 足腰が弱まるといけないから、との言い訳で家族から家を追い出され、1日10時間ひたすら駐車場の車1台分のスペースを歩き続ける人、汚物を手のひらに抱え、微笑みながら差し出す人、廊下に排尿して嗚咽を漏らしながらその場にへたり込む人、何を食べさせてもうまいもまずいも辛いも甘いも感じられなくなった人、パーキンソン病で体が丸くなり、布切れと区別がつかないほどに小さくなってしまった人、家族と同じ食卓を囲む体力もなくなってしまったので、一人床に座らされ、ペットのように食事を取る人・・・ その人は神も宗教も、平和も救いも信じないと言う。 「神とか救いとか言うならさ、まずそいつが、俺の見た救われない人たちを100人救ってみろよ、っていうんだよ」 たぶん私には私にしか分からない世界があって、彼には彼にしか分からない世界があって、裕福に何不自由なく生きてきた人は、その両方とも、生涯知ることなく人生を終えていく。 そう考えていくと、この世のすべての人類誰からも見向きもされない、「誰も知らない世界」というものも、この世には存在するのではないだろうか。 私たちが語る世界というものは、あまりにも小さく、そしてあまりにも、現実に届いていない。
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2008年07月19日
人は如何に生きるべきか
今振り返ると、随分ひどいことをしてきたな、と思う。 親を泣かせたこともあるし、約束を破ったこともあるし、友達を縁を切ったこともあるし、嘘をついたこともあるし、相手を傷つけるようなことを言ったこともあるし、かっこよくもないのにかっこつけていたこともあるし、周りの人間はなんでこんな頭が悪いんだろうと軽蔑したこともあるし、逃げも隠れもしたこともあるし、とんでもない人生だ。 人類も、地球に対してひどいことをしてばかりだった。戦争はするし、魔女狩りはするし、奴隷を従えたりするはするし、謀略で主に毒を飲ませたりはするし、病気は流行らせるし、革命は起こすし、石油は掘り当てるし、密告はするし、隠蔽はするし、何もかも最低だ。 結局今、環境問題環境問題と訴えているものは、つまるところ人類の生き方が間違っていた、ということに対するひとつの「結果」だ。 これまでの人類の生き方は、どこかに決定的な間違いがあって、それを是正しなければならない、その具体的な判例として、環境問題は存在しているわけだ。 今俗に「地球温暖化」とか「マイナス6%」とか言っているものは、要するに「人類の過ちをCO2排出量に換算しよう」としているだけのことにすぎない。 大切なのは、CO2を減らすことではなくて、CO2を減らすことをひとつのきっかけとして、私たちの歩みのどこに間違いがあったのか、そして人はどのように生きるべきであったのか、その“答え”を、導き出すことだ。 人は如何に生きるべきか。エコロジーが問うものは、すべからく最後にはそこに行き着くのだ。
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2008年07月18日
監獄の国
某レストラングループの契約店長の死亡が、過労死として認定されたらしい。限界を超える残業を強要され、倒れたのだそうだ。 過労死、と聞いていつも思うのは「そうなる前に逃げ出すことはできなかったのだろうか」ということだが、私自身の実体験から照らし合わせても、「逃げ出す」という行為は、じつは簡単なことではない。 「死と逃亡」を天秤にかける、ということについて、人は簡単に「死のほうが重く、逃亡のほうが軽い」という判定を下しがちだ。死んでしまっては遅いのだから、と。 だがこの国では、逃亡した“後”の精神的なストレスと実質的なリスクは、想像するだに尋常ではなく、逃亡した後の罵詈雑言、重圧、手続き、復帰の難易度、そういったことを考慮すると、「逃亡は死よりも重い」と判断する人たちが多いのも理解できる。 過労死もそうだし、14歳がバスジャックを起こすのもそうだし、秋葉原で無差別殺人が起こるのもそうだし、この国における様々な問題の根本は、「逃げ出せないから」という点にある、と言っても過言ではない。 逃げてしまったら、死よりも辛い生を生かされる、その現実が、様々な歪みを引き起こす一番の原因だとも言えるのではないだろうか。 なぜこの国はこんなにも「逃げ出せない」国になってしまったのだろう。いや、昔からこの国は「逃げ出せない」国だったのだろうか。 「逃げてもいいよ」「逃げるべきだよ」そういった言葉が“現実”として通用する国にならない限り、悲劇は、増え続けるだろう。
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