2008年08月10日
結論:エコロジーと環境問題の解決は別の話だ
前の記事で「続く」と書いたが、続くようで続かないかもしれない。
『排除型社会』を読んでずっと考えた。
結局、現在の環境問題のすべての根本は「大量生産大量消費」にある。
ではなぜ大量生産大量消費社会になったのか、ということを考えると、経済の成長による個人主義の発展と、その後の経済成長の崩壊による社会の不安定と相対的剥奪感に原因がある。
つまり、個人主義によって「“今ここにある”自分ひとりの人生を考えればいい」社会になったのと同時に、雇用の不安定や犯罪の増加などにより周りのすべてが敵に見える社会になったことによって、「自分ひとりの人生をバリケードが如く強硬に守らなければならなくない」世界になったから、未来や、他人や、将来を考えて生きることができなくなり、それが環境破壊を生み出したのだ。
環境破壊を食い止めるためには、つまるところ大量生産大量消費社会を是正しなければならない。
そのためには「個人主義社会」から解放されるような新しい形態のコミュニティを作る必要と、「相対的剥奪感」から解放されるような、全世界に通用するような公平な評価基準と監査システムを構築しなければならないのだ。
その結論まで辿り着いて、ずっと考えた。
そして、もうこう結論付けてしまおうと思う。
「エコロジーでは、環境問題は解決できない」と。
いや、解決できない、というのは語弊がある。
現実にCO2増加による地球の温暖化は進んでいるのだから、植林や節約を通じて、とりあえずCO2排出量は減らさなければならない。
環境問題を解決させるにも、その「解決の場」がなくなってしまっては元も子もないからだ。
だが、それはあくまで即物的な対症療法であって、CO2削減と同時に、根本的な環境問題の解決策を考えなければならない。
言うなれば、エコロジーと根本的な解決策は、自転車の前輪と後輪のようなもので、双方が共に機能していなければ、環境問題の解決には辿り着かないのだ。
だが今現在、前輪となる「エコロジー」ばかりが肥大化し、環境問題の根本的な解決策を探る試みは、ほとんどなされていない。
そういう意味で、「自転車は前輪だけでは走らない」という意味合いで、「エコロジーはCO2は削減できるが、環境問題の解決にはならない」と、言い切ってしまっていいと思うのだ。
うん、長年エコロジーに感じていた違和感が解決したような気がする。
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2008年08月08日
『排除型社会』に答えはあるか
先日の記事で紹介した『排除型社会』と言う本。結局借りて読んでいる。 現在の社会病理の根本が的確に網羅されていて、これ一冊あれば、現在を蝕む人間の精神構造の概略が掴めるようになっている。一家に一冊持っておきたい名著だ。 さて、『排除型社会』によると、現代が『排除型社会』つまり人と人が蹴落としあい、プライベートを強行に死守し、人や世界への思いやりを失い、自分の事しか考えないような社会になってしまったのには、大きく2つの原因があるという。 1つは経済の発展による個人主義の増長。世界が豊かになって、物質的に一家に一台だったものが一人に一つずつ与えられるようになった、という面もそうだし、世界の誰もが「市民権」を持つようになり、差別や格差がなくならないにしろ、それを是正するよう主張し、声を上げることが可能になった、という権利的な面でも、個人主義は全世界に浸透した。要するに「1人でも生きていられる社会」ができあがったのである。 1人でも生きていける社会。それはある意味では、人々が平等に生きられるようになった、ということだが、ある意味では、コミュニティや隣人との接点をもつ必然性が失われた、ということでもある。 そして、世界の発展による平等は、「これからも永続的に発展は続く」という前提の上に成り立つものであり、「成長の限界」が露呈した近代後期以降、大きな問題が現れた。 それが2つ目の原因となる「相対的剥奪感」である。 経済が不安定になると、雇用制や給与も不安定になり、それに伴う犯罪も増加し、「いつ誰から蹴落とされるかもしれない」という不安が世界を覆い始める。そうなると、例えば働いていない人間を見ると、「こいつらは生活保護を受けて俺たちの税金でのんびりと暮らしているんだ」と憤るようになり、上を見ると、「こいつらは俺たちをいいようにこき使って搾取しているんだ」と感じるようになる。 絶対的な経済格差や社会格差とは別に、飢えの人間も下の人間もすべての人間が「自分から搾取している」と思うようになる。 それを「相対的剥奪感」と言い、相対的剥奪感に一度苛まれると、すべての人間が自分の敵だと思うようになり、「先にやらなければこちらがやられる」という強迫観念の元、自主的に周りの人間を排除し、バリケードを張るようになる。 つまり、現在が『排除型社会』になっているのは、経済成長によって増長した個人主義が、経済の崩壊によって相対的剥奪感に変化したのが原因である、というのである。簡単に言うならば「経済成長」という梯子を使い、「平等と市民権と個人権利のある社会」という足場に上り詰めたところ、梯子だけが外されてしまい、見知らぬ人々が自分の周りを囲っていることに気づいて、そのすべてが敵に見えてしまっている、というのが『排除型社会』の現状だと言うのだ。 続く
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2008年08月07日
環境問題の深部
環境問題解決の「最終的なゴール」はどこなのだろうか、という疑問を、以前にも記事にしたような気がする。 即物的に木がなくなったのであれば木を植えましょう、という話は分かるし、電気を使いすぎているのなら電気を節約しましょう、ということにもなる。 現状、問題とされている事に対する対処法ならいくらでも思いつくのだが、じゃあどうなったらゴールに辿り着いた、と言えるのだろうか。 例えば「低炭素社会の実現」というスローガンがあったとする。それは、全人類が物理的に二酸化炭素を使用しなくなればゴール、なのだろうか。 例えば、「森林を伐採しない世界を作ろう」というスローガンがあったとする。それは、今ある本棚や学習机やコンポのスピーカーが全部プラスチック製になればゴール、なのだろうか。 要するに「環境に優しい社会」と言うものの、人々は「何がどういう状態になった時が“環境に優しい社会になった”と言えるのか、そのゴールを見据えた上で動いているのだろうか」という疑問があるのだ。 なぜそんなことを考えているのか、と言うと、例えば今人が自然を大切にしなくなったのは、自然に対する「思いやり」の心がなくなったからだ、という定義が成り立つとして、じゃあ「思いやり」の心を育むのはエコロジーの問題ではないのではないのだろうか、と考えているからだ。 例えばエアコンを寝ている間中付けっぱなしにしている人がいる、とか、物を使い捨てにする人がいる、とか、要らない物までどんどん買ってしまう人がいる、とか、ちょっとの移動にも自動車を使ってしまう人がいる、などといった人間の問題があって、それが、思いやりの心がなくなった、とか、人と人との繋がりが失われた、とか、誰もが誰もを嫉む社会になった、とか、自分の事さえ良ければそれでいいと考える人が増えた、とか、今という瞬間の快楽しか考えられず未来に対する想像力が失われた、などという現代社会の心理構造に基づいた「結果論」なのだとすれば、エアコンを消しましょうとか、物を大切にしましょう、とか、そういった注意をしたとしても、問題の「上っ面」に対処した、というだけで、根本的な解決にはなっていないのではないか、と考えているのだ。 本当はエコロジーとは表面的な問題で、真の問題はその深部に存在する、というのであれば、本当に考えなければならない問題も、環境問題ではない、ということになる。 そういう意味で、本当に環境問題を解決させるのは、エコロジーではないのではないか、と思っていて、今その答えを社会学や心理学や探っている。 答えはまだ、出ていない。
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2008年08月05日
温暖化をカネに“する”とはどういうことか
『ecogroove』さんの「「温暖化」がカネになる」という記事について。 記事によると、『「温暖化」がカネになる』という本があって、「金儲けの欲望が地球環境を守る」というキャッチコピーが付されている。 「人間の「損したくない」「儲けたい」という欲望をひきつけることで、全体としては温室効果ガスを削減することができることであり、善である」というのが、欧米の基本的な姿勢であるらしい。 そこで考える。「ほう、そこまで話は単純明快かね??」 例えば「ダイキン」というエアコンメーカーがあって、今その会社が企業広告を電車の中吊りに打ち出している。 その広告によると、日本では当たり前にように普及している「インバーター式エアコン」が、世界ではまだまだ普及していないらしい。「インバーター式」とは、温度設定によって風の強さを自動調整する機能で、その機能がついていないと、設定温度まで一気に風を送り、設定温度まで達したら止まり、また一気に風を送る、ということを繰り返すため、非常に電気効率が悪いらしい。 なので、インバーター式エアコンを普及させることは、CO2の排出を抑制し、地球環境を守るので、ダイキンは、インバーター式エアコンを世界中に売り出すことを「環境貢献」としての使命だ、と認識しているのだそうだ。 さあでは、実際インバーター式エアコンが世界中に普及したとして、CO2排出を抑制するエアコンだから、と世界中でガンガンインバーター式エアコンが使われるようになったとしよう。 エアコンをガンガン使うことは、「環境貢献」になるのだろうか? 問題なのは、ダイキンは冗談を言っているわけでも無知なのでもなく、本気で地球の将来を憂い、本気で「自分たちのエアコンが大量に売れれば地球の環境は守られる」と確信している、ということだ。 そういうことはこの国だけを考えても、いたるところで行われている。 例えば、「2007Ver.」「2008Ver.」という形で毎年新しいデザインのエコバッグを開発しているメーカーがある。 彼らは「エコとファッションを結びつけて、エコはおしゃれだ、と認識されれば地球環境は守れるはずだ」と本気で確信して、1年ごとにエコバッグを買い換えるようにと宣伝している。 1年ごとにエコバッグを買い換えて使い捨てしていては、エコにならないのでは?という考えは毛頭ない。 例えば、「Think the Earthプロジェクト」が主催している「Water Planet」というイベントがある。 自社で製作したマイボトルを買って、都内各所にある「オアシス」と呼ばれるポイントに行けば、無料でボトルに給水してもらえる、というものだが、イベントが終了し、給水ポイントが撤去されれば、マイボトルの持つ必然性が失われて、マイボトルは使い捨てになるのではないか、という可能性は、考慮されていない。 「カネになる」「儲かる」という以上、資本主義のこの世界では、何かしらのモノを、大量生産し大量消費させなければならない。 「人間の「損したくない」「儲けたい」という欲望をひきつけることで、全体としては温室効果ガスを削減することができることであり、善である」という言説は、「本当にその欲望を成就させることで温室効果ガスを現実的に・正確に削減できる」という前提が必要で、その前提がきちんと成立するのかどうかは、まったく話が別だ。 厳密に言うと「温暖化がカネになる」という表現は正確ではなくて、人為的操作によって「温暖化をカネに“する”」という言い方が正解だ。 カネにする、という操作が加わる以上、どこかに必ず負荷があって、本当に温暖化をビジネスにして、この星は救われるのか、改めて考え直す必要が出てくるだろう。
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2008年08月05日
世界崩壊後の東京物語
今日は東京に久しぶりの雨が降ったが、そういえば東京に関して言えば、ここ最近は2週間に1回程度しか雨が降っていない。 香川県などでは、既に取水制限などもしかれているようだが、東京で取水制限をして水道の水が止まった、という経験を、少なくとも私はしたことがない。 東京も一度取水制限が敷かれて、水を飲みたくても水が出ない、という状況を経験したほうが、エコロジー的に危機感を持つきっかけにもなっていいのではないか、と思うのだが、東京は取水制限が敷かれない技術やシステムを開発している、ということなのだろうか。 そういえば、1年に1度くらいの割で、「東京に大震災が起きたらこれだけの被害が出る」というシミュレーションが雑誌などに掲載されるが、実際に大震災が起きる気配もない。 東京が潰れてしまうと日本という国の機能の大部分が失われるため、防御システムが堅強なのは想像に難くないが、それにしてもここまで東京が災害や危機的状況と無縁なのは、何か霊的な因果が絡んでいるのではないか、とまで疑いたくもなってしまうし、実際東京に住んでいる人で「世界が破滅したとしても東京だけは守られる」と本気で思っている人は、おそらく数万単位で存在するだろう。 これから、望む望まないに関わらず、地球の崩壊は進んでいくだろう。そういう意味合いで考えると、これから既得権益を死守したいと考える政治家や利権者は、「世界を破滅させない方法」ではなく、「世界が破滅したとしても東京だけは守る方法」を考える方向へシフトしていくかもしれない。 元々エコロジーとは「世界全体を守る」ということが前提にあって、もし「世界のすべてを崩壊させ、その他の地域の人々を根絶やしにしても、東京だけは守っていこう」という考え方が生まれれば、エコロジーとは袂を分かつことになる。そして、「袂を分かってもいいじゃない」ということになれば、エコロジーにおける様々な前提が、崩壊することになるだろう。 たぶん地球の崩壊が間近に迫るにつれて、対立の構図も変わっていくことになる。東京が本当の“危機”に陥った時、人々の隠された欲望や利権が露になるだろうし、できるだけそういう“時”は早目を訪れたほうが良い。そう思っている。
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2008年08月03日
「打ち水」が今非常に危ない
昨日、秋葉原で「打ち水っ娘大集合!」というイベントが行われたらしい。 ヒートアイランド現象に対抗するため、日本古来の風習である「打ち水」で、都会を冷やそう、という「打ち水大作戦」の秋葉原版と言えるもので、厳粛な神社の境内で、コスプレをした女の子たちが群がって打ち水をした、ということで、賞賛の声もあったり批判の声も上ったりしている。 打ち水大作戦はいいのだが、1点非常に気になっていることがある。 そもそも打ち水は、朝夕の涼しい時間帯に行わなければ意味がない。涼しい時間帯に撒いておいた水が、1日の気温上昇と共に徐々に蒸発していくことで、昼間の気温上昇を妨げる、というのが本来の打ち水の効能で、真昼間暑い最中に水を撒いたとしても、まさに「焼け石に水」で、一瞬涼しくなる瞬間はあるものの、その効果は10分と持続しないからだ。 で、「打ち水っ娘大集合!」のホームページを見てみると・・・打ち水の時間が「15:30~16:00」と書いてある。 「打ち水大作戦」も・・・「7月22日~8月23日の「正午」に打ち水をしよう」とある。 つまり「打ち水をしても一番効果のない時間帯」に、これらのイベントでは、打ち水を行っているのである。 もちろんイベント事なので、一番「見栄え的に映える時間帯」ということで、この時間帯を設定しているのだろうが、問題なのは、打ち水大作戦に感銘を受けた人たちが「昼間の暑い時間帯に打ち水はやったほうがいい」という間違った知識を得てしまい、実際に真昼間に打ち水をする人たちが、着々と増えてきている、ということだ。 エコアクションを取るならば、ちゃんと正しい知識を身につけて、正しい所作でアクションをしないと、却って逆効果になってしまうこともありうる。 このまま「打ち水」は、エコアクションをしているつもりでなんの実効性も持てないものとして、定着してしまうのだろうか。
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2008年08月03日
困窮と「低位性満足」
「低位性満足」という言葉が存在するらしい。 今までこのブログに記事では(一般論とそう相違ないと思う)、エコロジーに対する反発として「エコロジーどころでない」ほどに困窮した状態にある人々が存在する、と指摘してきた。 だが、もう一つ観点があって、世界には「程度の低い喜びで満足している人たち」が存在する。 ささやかな幸せで満足している、と言えば聞こえはいいかもしれないが、要するに一日中ネットゲームをしていたり、仕事後のキャバクラ通いが人生唯一の癒しであったり、ユニクロで3足5000円のジーパンをまとめ買いすることに快楽を感じたり、「高尚か低俗か」という意味合いにおいての「低俗」な幸せで十分充足している状態を、「低位性満足」と言うのだそうだ。 現在社会問題化されているニートの問題も、家族の問題や格差の問題と共に、「低位性満足」の積み重ねで人生を終えることをポジティブに選択する若者が増えたのが原因なのではないか、という分析もある。 そういう人たちにとっては、地球温暖化や地球の破滅など、ポジティブな意味で「取るに足らないもの」として解釈される。地球温暖化OK、世界が破滅してもOK、だって「東京が海に沈んで動物や世界の人々が破滅しても、キャバクラに行ければ自分は幸せだもの」というのである。 そういう人たちは、世界の現状に不満を感じているわけではないから、そもそもエコロジーに心が向かう“きっかけ”そのものが存在しない。 例えば、エコロジーに反発するほどに困窮している人々に対しては、彼らのための社会的なセーフティネットを用意すればよい、と、その実現性は抜きにして解決策はなんとなくイメージできる。 だが、現状に満足してしまっている人たちに、「不満を持て!」を煽りかける形で、エコロジーに目を向けさせるのは簡単ではないだろう。 「低位性満足」に安住する人たちに、世界の現状をどう伝えればいいのか。非常に大切な目線だと思うが、これまでそのようなことが語られることは、ほとんどなかったような気がする。
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2008年08月01日
スローライフの本当の意味
風邪を引いて身体がだるく、でかけるのも億劫となると、どうしてもレトルト食品に頼ってしまう。 精神的に押し潰されそうになっていて、何も手につかない、という時に外に出なければいけない、となるとついついマイ箸を忘れてしまう。 悩み事が多く、一人で考える時間が長くなると、どうしても夜更かししてしまう。 こういう風に考えていくと、じつはエコロジーというものは、「心身ともに健常な状態」にあって初めて可能なのだ、ということに気づく。 言い方を変えれば、持続可能な社会であったり、低炭素社会であったり、(あるいは平和な社会であったり、思いやりのある社会であったり、とも言えるかもしれない)、そういった社会を実現するためには、さしあたって「誰もが心身ともに健常な状態を維持できること」が不可欠なのだ、ということになる。 そういう意味で言えば、じつは俗に「スローライフ」と呼ばれるライフスタイルの「スロー」とは、早いとか遅いという「速度」が問題なのではなくて、体力的精神的に追い詰められないだけの「余裕」や「ゆとり」が必要だ、ということを指しているのではないか、と思うのだ。 ゆっくり生きていたって追い詰められる人はいるかもしれないし、逆に早く起きることで余裕やゆとりを感じる人もいるかもしれない。そこで重要なのは、単純に早いものを遅くすることではなく、心身のゆとりを軸として速度をゆとりに合わせて修正することなのではないだろうか。 とりあえず、精神的に余裕がないと、エコロジーもへったくれもないのである。心とは、そういうものだ。
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